の花もいまだ咲かねば霍公鳥《ほととぎす》佐保の山辺に来鳴き響《とよ》もす」(巻八・一四七七)等があって、佐保には鳥の多かったことが分かる。
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波《なみ》の上《うへ》ゆ見《み》ゆる児島《こじま》の雲《くも》隠《がく》りあな気衝《いきづ》かし相《あひ》別《わか》れなば 〔巻八・一四五四〕 笠金村
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天平五年春|閏《うるう》三月、入唐使(多治比真人広成《たじひのまひとひろなり》)が立つ時に、笠金村《かさのかなむら》が贈った長歌の反歌である。一首は、あなたの船が出帆して、波の上から見える小島のように、遠く雲がくれに見えなくなって、いよいよお別れということになるなら、嗚呼《ああ》吐息《といき》の衝《つ》かれることだ、悲しいことだ、というのである。此処でも、「波の上ゆ見ゆる」と「ゆ」を使っている。児島は備前児島だろうという説があるが、序の形式だから必ずしも固有名詞とせずともいい。「気衝《いきづ》かし」は、息衝《いきづ》くような状態にあること、溜息《ためいき》を衝《つ》かせるようにあるというので、いい語だとおもう。「味鴨《あぢ》の住む須佐《すさ》の入江の隠《こも》り沼《ぬ》のあな息衝《いきづ》かし見ず久《ひさ》にして」(巻十四・三五四七)の用例がある。訣別《けつべつ》の歌だから、稍《やや》形式になり易いところだが、海上の小島を以て来てその気持を形式化から救っている。第四句が中心である。
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神名火《かむなび》の磐瀬《いはせ》の杜《もり》のほととぎすならしの岳《をか》に何時《いつ》か来鳴《きな》かむ 〔巻八・一四六六〕 志貴皇子
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志貴皇子の御歌。磐瀬《いわせ》の杜《もり》は既にいった如く、竜田町の南方車瀬にある。ならしの丘《おか》は諸説あって一定しないが、磐瀬の杜の東南にわたる岡だろうという説があるから、一先《ひとま》ずそれに従って置く。この歌は、「ならしの丘に何時か来鳴かむ」と云って、霍公鳥《ほととぎす》の来ることを希望しているのだが、既に出た皇子の御歌の如く、おおどかの中に厳《おごそ》かなところがあり、感傷に淫《いん》せずになお感傷を暗指《あんじ》している点は独特の御風格というべきである。他の皇子の御歌と較《くら》べるから左程に思わぬが、そのあたりの歌を読んで来ると、やはり選は此歌に逢着《ほうちゃく》するのである。此歌は一首に三つも地名が詠込《よみこ》まれている。「朝霞たなびく野べにあしひきの山ほととぎすいつか来鳴かむ」(巻十・一九四〇)の例があるが、民謡風だから「個」の作者が隠れて居り、それだけ呑気《のんき》である。この近くにある、「もののふの磐瀬の杜《もり》の霍公鳥いまも鳴かぬか山のと陰に」(巻八・一四七〇)でも内容が似ているが、これも呑気である。
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夏山《なつやま》の木末《こぬれ》の繁《しじ》にほととぎす鳴《な》き響《とよ》むなる声《こゑ》の遙《はる》けさ 〔巻八・一四九四〕 大伴家持
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大伴家持《おおとものやかもち》の霍公鳥《ほととぎす》の歌であるが、「夏山の木末の繁《しじ》」は作者の観《み》たところであろうが、前出の、「山の際の遠きこぬれ」の方が旨《うま》いようにもおもう。「こゑの遙けさ」というのが此一首の中心で、現実的な強味がある。この巻(一五五〇)に、湯原王《ゆはらのおおきみ》の、「秋萩の散りのまがひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遙けさ」も家持の歌に似ているが、家持の歌のまさっているのは、実際的のひびきがあるためである。然るに巻十(一九五二)に、「今夜《このよひ》のおぼつかなきに霍公鳥鳴くなる声の音の遙けさ」というのがあり、家持はこれを模倣しているのである。併し、「夏山の木末の繁に」といって生かしているのを後代の吾等は注意していい。「繁《しじ》に」は槻落葉《つきのおちば》にシゲニと訓《よ》んでいる。
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夕《ゆふ》されば小倉《をぐら》の山《やま》に鳴《な》く鹿《しか》は今夜《こよひ》は鳴《な》かず寝宿《いね》にけらしも 〔巻八・一五一一〕 舒明天皇
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秋|雑歌《ぞうか》、崗本《おかもと》天皇(舒明《じょめい》天皇)御製歌一首である。小倉山は恐らく崗本宮近くの山であろうが、その辺に小倉山の名が今は絶えている。一首の意は、夕がたになると、いつも小倉の山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない、多分もう寝てしまったのだろうというのである。いつも妻をもとめて鳴いている鹿が、妻を得た心持であるが、結句は、必ずしも率寝《いね》の意味に取らなくともいい。御製は、調べ高くして潤《うるお》いがあり、豊かにして弛《たる》まざる、万物を同化|包摂《ほうせつ》したもう親愛の御心の流露《りゅうろ》であって、「いねにけらしも」の一句はまさに古今無上の結句だとおもうのである。第四句で、「今夜は鳴かず」と、其処に休止を置いたから、結句は独立句のように、豊かにして逼《せま》らざる重厚なものとなったが、よく読めばおのずから第四句に縷《いと》の如くに続き、また一首全体に響いて、気品の高い、いうにいわれぬ歌調となったものである。「いねにけらしも」は、親愛の大御心であるが、素朴・直接・人間的・肉体的で、後世の歌にこういう表現のないのは、総べてこういう特徴から歌人の心が遠離して行ったためである。此御歌は万葉集中最高峰の一つとおもうので、その説明をしたい念願を持っていたが、実際に当ると好い説明の文を作れないのは、この歌は渾一体《こんいったい》の境界にあってこまごましい剖析《ぼうせき》をゆるさないからであろうか。
此歌の第三句、旧板本「鳴鹿之」となっているから、訓は「ナクシカノ」である。然るに古鈔本(類・神・西・温・矢・京)には、「之」の字が「者」となって居り、また訓も「ナクシカハ」(類・神・温・矢・京)となって居るのがある。注釈書では既に拾穂抄でこれを注意し、代匠記で、官本之作[#レ]者、点云、ナクシカハ。別校本或同[#レ]此。幽斎本之作[#レ]者、点云、ナクシカノ、と注した。そこで近時、「ナクシカハ」の訓に従うようになったが、古今六帖には、「鳴く鹿の」となって居り、又幽斎本では鳴鹿者と書いて、「ナクシカノ」と訓んで、また旧板本は鳴鹿之であるから、「ナクシカノ」という訓も古くからあったことが分かる。もっとも、「鳴鹿之」は巻九巻頭の、「臥鹿之」の「之」に拠《よ》って直したとも想像することも出来るが、兎も角長い期間「鳴く鹿の」として伝わって来ている。今となって見れば、「鳴く鹿は[#「は」に白丸傍点]」の方は、「今夜は[#「は」に白丸傍点]」と続いて、古調に響くから、「鳴く鹿は」の方が原作かも知れないけれども、「鳴く鹿の」としても、充分味うことの出来る歌である。
なお、一寸《ちょっと》前言した如く、巻九(一六六四)に、雄略天皇御製歌として、「ゆふされば小倉の山に臥す鹿の今夜《こよひ》は鳴かず寐《い》ねにけらしも」という歌が載《の》っていて、二つとも類似歌であるがどちらが本当だか審《つまびらか》でないから、累《かさ》ねて載せたという左注がある。併し歌調から見て、雄略天皇御製とせば少し新し過ぎるようだから、先ず舒明天皇御製とした方が適当だろうという説が有力である。なお小倉山であるが、「白雲の竜田の山の、滝の上の小鞍《をぐら》の峯」(巻九・一七四七)は、竜田川(大和川)の亀の瀬岩附近、竜田山の一部である。それから、この(一六六四)が雄略天皇の御製とせば、朝倉宮近くであるから、今の磯城《しき》郡朝倉村黒崎に近い山だろうということも出来る。それに舒明天皇の高市崗本宮近くにある小倉山と、仮定のなかに入る小倉山が三つあるわけである。併し、舒明天皇の御製でも、若《も》しも行幸でもあって竜田の小鞍峯あたりでの吟咏《ぎんえい》とすると、小倉山考証の疑問はおのずから冰釈《ひょうしゃく》するわけであるけれども、「今夜は鳴かず」とことわっているから、ふだんにその鹿の声を御聞きになったことを示し、従って崗本宮近くに小倉山という名の山があったろうと想像することとなるのである。
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今朝《けさ》の朝《あさ》け雁《かり》がね聞《き》きつ春日山《かすがやま》もみぢにけらし吾《わ》がこころ痛《いた》し 〔巻八・一五二二〕 穂積皇子
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穂積皇子《ほづみのみこ》の御歌二首中の一つで、一首の意は、今日の朝に雁の声を聞いた、もう春日山は黄葉《もみじ》したであろうか。身に沁《し》みて心悲しい、というので、作者の心が雁の声を聞き黄葉を聯想しただけでも、心痛むという御境涯にあったものと見える。そしてなお推測すれば但馬皇女《たじまのひめみこ》との御関係があったのだから、それを参考するとおのずから解釈出来る点があるのである。何《いず》れにしても、第二句で「雁がね聞きつ」と切り、第四句で「もみぢにけらし」と切り、結句で「吾が心痛し」と切って、ぽつりぽつりとしている歌調はおのずから痛切な心境を暗指するものである。前の志貴皇子の「石激る垂水の上の」の御歌などと比較すると、その心境と声調の差別を明らかに知ることが出来るのである。もう一つの皇子の御歌は、「秋萩は咲きぬべからし吾が屋戸《やど》の浅茅が花の散りぬる見れば」(巻八・一五一四)というのである。なお、近くにある、但馬皇女の、「言《こと》しげき里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを」(同・一五一五)という御歌がある。皇女のこの御歌も、穂積皇子のこの御歌と共に読味うことが出来る。共に恋愛情調のものだが、皇女のには甘く逼《せま》る御語気がある。
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秋《あき》の田《た》の穂田《ほだ》を雁《かり》がね闇《くら》けくに夜《よ》のほどろにも鳴《な》き渡《わた》るかも 〔巻八・一五三九〕 聖武天皇
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天皇御製とあるが、聖武《しょうむ》天皇御製だろうと云われている。「秋の田の穂田を」までは序詞で、「刈り」と「雁」とに掛けている。併しこの序詞は意味の関聯があるので、却って序詞としては巧みでないのかも知れない。御製では、「闇《くら》けくに夜のほどろにも鳴きわたるかも」に中心があり、闇中《あんちゅう》の雁、暁天に向う夜の雁を詠歎したもうたのに特色がある。「夜のほどろ我が出《いで》てくれば吾妹子が念へりしくし面影に見ゆ」(巻四・七五四)等の例がある。
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夕月夜《ゆふづくよ》心《こころ》も萎《しぬ》に白露《しらつゆ》の置《お》くこの庭《には》に蟋蟀《こほろぎ》鳴《な》くも〔巻八・一五五二〕 湯原王
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湯原王《ゆはらのおおきみ》の蟋蟀《こおろぎ》の歌で、夕方のまだ薄い月の光に、白露のおいた庭に蟋蟀が鳴いている。それを聞くとわが心も萎々《しおしお》とする、というのである。後世の歌なら、助詞などが多くて弛《たる》むところであろうが、そこを緊張せしめつつ、句と句とのあいだに、間隔を置いたりして、端正で且つ感の深い歌調を全《まっと》うしている。「心も萎《しぬ》に」は、直ぐ、「白露の置く」に続くのではなく、寧ろ、「蟋蟀鳴く」に関聯しているのだが、そこが微妙な手法になっている。いずれにしても、分かりよくて、平凡にならなかった歌である。
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あしひきの山《やま》の黄葉《もみぢば》今夜《こよひ》もか浮《うか》びゆくらむ山川《やまがは》の瀬《せ》に 〔巻八・一五八七〕 大伴書持
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大伴|書持《ふみもち》の歌である。書持は旅人の子で家持の弟に当る。天平十八年に家持が書持の死を痛んだ歌を作っているから大体その年に
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