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巻向《まきむく》の山辺《やまべ》とよみて行《ゆ》く水《みづ》の水泡《みなわ》のごとし世《よ》の人《ひと》吾《われ》は 〔巻七・一二六九〕 柿本人麿歌集
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 人麿歌集にある歌で、「児等《こら》が手を巻向《まきむく》山は常《つね》なれど過ぎにし人に行き纏《ま》かめやも」(巻七・一二六八)と一しょに載っている。これで見ると、妻の亡くなったのを悲しむ歌で、「行き纏かめやも」は、通って行って一しょに寝ることがもはや出来ないと歎くのだから、この「水泡の如し」の歌も、妻を悲しんだ歌なのである。
 一首の意は、巻向山の近くを音たてて流れゆく川の水泡《みなわ》の如くに果敢《はか》ないもので吾身があるよ、というのである。
 この歌では、自身のことを詠んでいるのだが、それは妻に亡くなられて悲しい余りに、自分の身をも悲しむのは人の常情《じょうじょう》であるから、この歌は単に大観的に無常を歌ったものではないのである。其処をはっきりさせないと、結論に錯誤《さくご》を来すので、「もののふの八十うぢ河の網代木にいさよふ波の行方《ゆくへ》知らずも」(巻三・二六四)でもそうであるが、この歌も、単に仏教とか支那文学とかの影響を受け、それ等の文句を取って其儘《そのまま》詠んだというのでなく、巻向川(痛足《あなし》川)の、白く激《たぎ》つ水泡《みなわ》に観入して出来た表現なのである。恐らく此歌は人麿自身の作として間違は無いとおもうが、一寸見《ちょっとみ》には、ただ口に任せて調子で歌っているようにも聞こえるがそうではないのである。巻二に、人麿の妻を痛む歌があるが、この歌もああいう歌と関聯があるのかも知れず、又紀伊の海岸で詠んだ歌も妻を悲しみ追憶した歌だから、一しょにして味ってもいいだろう。

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春日《はるひ》すら田《た》に立《た》ち疲《つか》る君《きみ》は哀《かな》しも若草《わかくさ》の※[#「女+麗」、上−222−12]《つま》無《な》き君《きみ》が田《た》に立《た》ち疲《つか》る 〔巻七・一二八五〕 柿本人麿歌集
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 此処に、柿本人麿歌集に出づという旋頭歌《せどうか》が二十三首あるが、その一首だけ抜いて見た。旋頭歌は万葉にも数が少く、人麿でも人麿作と明かにその名の見えているのは一首も無い。けれども此処《ここ》の旋頭歌も、巻十一巻頭の旋頭歌も人麿歌集に出づというのであるから、人麿はこの形態の歌をも作ったのかも知れず、技法はなかなかの力量を思わしめるものである。併し内容は殆ど民謡的恋愛歌だから、そういう種類の古歌謡を人麿が整理したのだとも考えることが出来る。
 この一首は、この長閑《のどか》な春の日ですら、お前は田に働いて疲れる、妻のいない一人ぽっちの、お前は田に働いて疲れる、というので、民謡でも労働歌というのに類し、旋頭歌だから、上の句と、下の句とどちらから歌ってもかまわないのである。「君がため手力《たぢから》疲れ織りたる衣《きぬ》ぞ、春さらばいかなる色に摺《す》りてば好《よ》けむ」(巻七・一二八一)なども、女の気持であるが、やはり労働歌で、機《はた》織りながらうたう女の歌の気持である。

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冬《ふゆ》ごもり春《はる》の大野《おほぬ》を焼《や》く人《ひと》は焼《や》き足《た》らねかも吾《わ》が情《こころ》熾《や》く 〔巻七・一三三六〕 作者不詳
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 譬喩歌《ひゆか》で、「草に寄する」歌であるが、劇しい恋愛の情をその内容として居る。「冬ごもり」は春の枕詞。一首の意は、こんなに胸が燃えて苦しくて為方《しかた》ないのは、あの春の大野を焼く人達が焼き足りないで、私の心までもこんなに焼くのか知らん、というので、譬喩的にいったから、おのずからこういう具合に聯想の歌となるのである。この聯想はただ軽く気を利《き》かして云ったもののようにもおもえるが、繰返して読めば必ずしもそうでないところがある。つまり恋情と、春の野火との聯想が、ただ軽くつながって居るのでなく、割合に自然に緊密につながっているというのである。そんならなぜ軽くつながっているように取られるかというに、「焼く人は」と、「吾が情《こころ》熾《や》く」と繰返されているために、其処が調子が好過ぎて軽く響くのである。併しこれは民謡風のものだから自然そうなるので、奈何《いかん》ともしがたいのである。この歌は明治になってから古今の傑作のように評価せられたが、今云ったように民謡風なものの中の佳作として鑑賞する方が好いであろう。
 家持が、坂上大嬢《さかのうえのおおいらつめ》に贈ったのに、「夜のほどろ出でつつ来らく遍多数《たびまね》くなれば吾が胸|截《た》ち焼《や》く如し」(巻四・七五五)というがあり、「わが情《こころ》焼くも吾なりはしきやし君に恋ふるもわが心から」(巻十三・三二七一)、「我妹子に恋ひ術《すべ》なかり胸を熱《あつ》み朝戸あくれば見ゆる霧かも」(巻十二・三〇三四)というのがあるから、参考として味うことが出来る。

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秋津野《あきつぬ》に朝《あさ》ゐる雲《くも》の失《う》せゆけば昨日《きのふ》も今日《けふ》も亡《な》き人《ひと》念《おも》ほゆ 〔巻七・一四〇六〕 作者不詳
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 挽歌の中に載せている。吉野離宮の近くにある秋津野に朝のあいだ懸《か》かっていた雲が無くなると(この雲は火葬の烟《けむり》である)、昨日も今日も亡くなった人がおもい出されてならない、というのである。人麿が土形娘子《ひじかたのおとめ》を泊瀬《はつせ》山に火葬した時詠んだのに、「隠口《こもりく》の泊瀬の山の山の際《ま》にいさよふ雲は妹にかもあらむ」(巻三・四二八)とあるのは、当時まだ珍しかった、火葬の烟をば亡き人のようにおもった歌である。また出雲娘子《いずものおとめ》を吉野に火葬した時にも、「山の際ゆ出雲《いづも》の児等は霧なれや吉野の山の嶺《みね》に棚引《たなび》く」(同・四二九)とも詠んでいるので明かである。此一首は取りたてて秀歌と称する程のものでないが、挽歌としての哀韻と、「雲の失せゆけば」のところに心が牽《ひ》かれたのであった。

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福《さきはひ》のいかなる人《ひと》か黒髪《くろかみ》の白《しろ》くなるまで妹《いも》が音《こゑ》を聞《き》く 〔巻七・一四一一〕 作者不詳
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 自分は恋しい妻をもう亡《な》くしたが、白髪になるまで二人とも健《すこや》かで、その妻の声を聞くことの出来る人は何と為合《しあわ》せな人だろう、羨《うらやま》しいことだ、というので、「妹が声を聞く」というのが特殊でもあり一首の眼目でもあり古語のすぐれたところを示す句でもある。現代人の言葉などにはこういう素朴で味のあるいい方はもう跡を絶ってしまった。
 一般的なようなことを云っていて、作者の身と遊離しない切実ないい方で、それから結句に、「こゑを聞く」と結んでいるが、「聞く」だけで詠歎の響があるのである。文法的には詠歎の助詞も助動詞も無いが、そういうものが既に含まっているとおもっていい。

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吾背子《わがせこ》を何処《いづく》行《ゆ》かめとさき竹《たけ》の背向《そがひ》に宿《ね》しく今し悔《くや》しも 〔巻七・一四一二〕 作者不詳
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 これも挽歌の中に入っている。すると一首の意は、私の夫《おっと》がこのように、死んで行くなどとは思いもよらず、生前につれなくして、後《うし》ろを向いて寝たりして、今となってわたしは悔《くや》しい、ということになるであろう。「さき竹の」は枕詞だが、割った竹は、重ねてもしっくりしないので、後ろ向に寝るのに続けたものであろう。また、「背向《そがひ》に宿《ね》しく」は、男女云い争った後の行為のように取れて一層哀れも深いし、女らしいところがあっていい。
 然るに、巻十四、東歌《あずまうた》の挽歌の個処に、「愛《かな》し妹を何処《いづち》行かめと山菅《やますげ》の背向《そがひ》に宿《ね》しく今し悔しも」(三五七七)というのがあり、二つ共似ているが、巻七の方が優っている。巻七の方ならば人情も自然だが、巻十四の方は稍《やや》調子に乗ったところがある。おもうに、巻七の方は未だ個人的歌らしく、つつましいところがあるけれども、それが伝誦せられているうち民謡的に変形して巻十四の歌となったものであろう。気楽に一しょになってうたうのには、「かなし妹を」の方が調子に乗るだろうが、切実の度が薄らぐのである。
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巻第八

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石激《いはばし》る垂水《たるみ》の上《うへ》のさ蕨《わらび》の萌《も》え出《い》づる春《はる》になりにけるかも 〔巻八・一四一八〕 志貴皇子
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 志貴皇子《しきのみこ》の懽《よろこび》の御歌である。一首の意は、巌の面を音たてて流れおつる、滝のほとりには、もう蕨《わらび》が萌え出づる春になった、懽《よろこ》ばしい、というのである。「石激《いはばし》る」は「垂水《たるみ》」の枕詞として用いているが、意味の分かっているもので、形状言の形式化・様式化・純化せられたものと看做《みな》し得る。「垂水《たるみ》」は垂る水で、余り大きくない滝と解釈してよいようである。「垂水の上」の「上」は、ほとりというぐらいの意に取ってよいが、滝下《たきしも》より滝上《たきかみ》の感じである。この初句は、「石激」で旧訓イハソソグであったのを、考《こう》でイハバシルと訓《よ》んだ。なお、類聚古集《るいじゅうこしゅう》に「石灑」とあるから、「石《いは》そそぐ」の訓を復活せしめ、「垂水」をば、巌の面をば垂れて来る水、たらたら水の程度のものと解釈する説もあるが、私は、初句をイハバシルと訓《よ》み、全体の調子から、やはり垂水《たるみ》をば小滝ぐらいのものとして解釈したく、小さくとも激湍《げきたん》の特色を保存したいのである。
 この歌は、志貴皇子の他の御歌同様、歌調が明朗・直線的であって、然かも平板《へいばん》に堕《おち》ることなく、細かい顫動《せんどう》を伴いつつ荘重なる一首となっているのである。御懽びの心が即ち、「さ蕨の萌えいづる春になりにけるかも」という一気に歌いあげられた句に象徴せられているのであり、小滝のほとりの蕨に主眼をとどめられたのは、感覚が極めて新鮮だからである。この「けるかも」と一気に詠みくだされたのも、容易なるが如くにして決して容易なわざではない。集中、「昔見し象《きさ》の小河を今見ればいよよ清《さや》けくなりにけるかも」(巻三・三一六)、「妹として二人作りし吾が山斎《しま》は木高《こだか》く繁くなりにけるかも」(巻三・四五二)、「うち上《のぼ》る佐保の河原の青柳は今は春べとなりにけるかも」(巻八・一四三三)、「秋萩の枝もとををに露霜おき寒くも時はなりにけるかも」(巻十・二一七〇)、「萩が花咲けるを見れば君に逢はず真《まこと》も久になりにけるかも」(巻十・二二八〇)、「竹敷のうへかた山は紅《くれなゐ》の八入《やしほ》の色になりにけるかも」(巻十五・三七〇三)等で、皆一気に流動性を持った調べを以て歌いあげている歌であるが、万葉の「なりにけるかも」の例は実に敬服すべきものなので、煩《はん》をいとわず書抜いて置いた。そして此等の中にあっても志貴皇子の御歌は特にその感情を伝えているようにおもえるのである。此御歌は皇子の御作中でも優《すぐ》れており、万葉集中の傑作の一つだと謂《い》っていいようである。
 大体以上の如くであるが、「垂水」を普通名詞とせずに地名だとする説があり、その地名も摂津《せっつ》豊能《とよの》郡の垂水《たるみ》、播磨《はりま》明石《あかし》郡の垂水《
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