苅る辛荷の島に島回《しまみ》する鵜《う》にしもあれや家|思《も》はざらむ」(巻六・九四三)というのがある。これは若し鵜ででもあったら、家の事をおもわずに済むだろう、というので「羨しかも」という気持と相通じている。鵜を捉《とら》えて詠んでいるのは写生でおもしろい。

           ○

[#ここから5字下げ]
風《かぜ》吹《ふ》けば浪《なみ》か立《た》たむと伺候《さもらひ》に都多《つた》の細江《ほそえ》に浦《うら》隠《がく》り居《を》り 〔巻六・九四五〕 山部赤人
[#ここで字下げ終わり]
 赤人作で前歌の続である。「都多《つた》の細江」は姫路から西南、現在の津田・細江あたりで、船場川《せんばがわ》の川口になっている。当時はなるべく陸近く舟行《しゅうこう》し、少し風が荒いと船を泊《と》めたので、こういう歌がある。一首の意は、この風で浪が荒く立つだろうと、心配して様子を見ながら、都多《つた》の川口のところに船を寄せて隠れておる、というのである。第三句、原文「伺候爾」は、旧訓マツホドニ。代匠記サモラフニ。古義サモラヒニ。この「さもらふ」は、「東の滝の御門にさもらへど[#「さもらへど」に白丸傍点]」(巻二・一八四)の如く、伺候する意が本だが、転じて様子を伺うこととなった。「大御舟《おほみふね》泊《は》ててさもらふ[#「さもらふ」に白丸傍点]高島の三尾《みを》の勝野《かちぬ》の渚《なぎさ》し思ほゆ」(巻七・一一七一)、「朝なぎに舳《へ》向け榜《こ》がむと、さもらふと[#「さもらふと」に白丸傍点]」(巻二十・四三九八)等の例がある。
 この歌も、※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅《きりょ》の苦しみを念頭に置いているようだが、そういう響はなくて、寧ろ清淡とも謂うべき情調がにじみ出でている。ことに結句の、「浦隠り居り」などは、なかなか落着いた句である。そして読過のすえに眼前に光景の鮮かに浮んで来る特徴は赤人一流のもので、古来赤人を以て叙景歌人の最大なものと称したのも偶然ではないのである。吾等は短歌を広義抒情詩と見立てるから、叙景・抒情をば截然《せつぜん》と区別しないが、総じて赤人のものには、激越性が無く、静かに落着いて、物を観《み》ている点を、後代の吾等は学んでいるのである。

           ○

[#ここから5字下げ]
ますらをと思《おも》へる吾《われ》や水茎《みづくき》の水城《みづき》のうへに涕《なみだ》拭《のご》はむ 〔巻六・九六八〕 大伴旅人
[#ここで字下げ終わり]
 大伴旅人が大納言に兼任して、京に上る時、多勢の見送人の中に児島《こじま》という遊行女婦《うかれめ》が居た。旅人が馬を水城《みずき》(貯水池の大きな堤)に駐《と》めて、皆と別を惜しんだ時に、児島は、「凡《おほ》ならば左《か》も右《か》も為《せ》むを恐《かしこ》みと振りたき袖を忍《しぬ》びてあるかも」(巻六・九六五)、「大和道《やまとぢ》は雲隠《くもがく》りたり然れども我が振る袖を無礼《なめし》と思ふな」(同・九六六)という歌を贈った。それに旅人の和《こた》えた二首中の一首である。
 一首の意は、大丈夫《ますらお》だと自任していたこの俺《おれ》も、お前との別離が悲しく、此処《ここ》の〔水茎の〕(枕詞)水城《みずき》のうえに、涙を落すのだ、というのである。
 児島の歌も、軽佻《けいちょう》でないが、旅人の歌もしんみりしていて、決して軽佻なものではない。「涙のごはむ」の一句、今の常識から行けば、諧謔《かいぎゃく》を交《まじ》えた誇張と取るかも知れないが、実際はそうでないのかも知れない、少くとも調べの上では戯れではない。「大丈夫《ますらお》とおもへる吾や」はその頃の常套語で軽いといえば軽いものである。当時の人々は遊行女婦というものを軽蔑せず、真面目《まじめ》にその作歌を受取り、万葉集はそれを大家と共に並べ載せているのは、まことに心にくいばかりの態度である。
「真袖もち涙を拭《のご》ひ、咽《むせ》びつつ言問《ことどひ》すれば」(巻二十・四三九八)のほか、「庭たづみ流るる涙とめぞかねつる」(巻二・一七八)、「白雲に涙は尽きぬ」(巻八・一五二〇)等の例がある。

           ○

[#ここから5字下げ]
千万《ちよろづ》の軍《いくさ》なりとも言挙《ことあげ》せず取《と》りて来《き》ぬべき男《をのこ》とぞ念《おも》ふ 〔巻六・九七二〕 高橋虫麿
[#ここで字下げ終わり]
 天平《てんぴょう》四年八月、藤原|宇合《うまかい》(不比等の子)が西海道節度使《さいかいどうのせつどし》(兵馬の政を掌《つかさど》る)になって赴任する時、高橋虫麿《たかはしのむしまろ》の詠んだものである。「言挙せず」は、「神ながら言挙せぬ国」(巻十三・三二五三)、「言挙せず妹に依り寝む」(巻十二・二九一八)等の例にもある如く、彼此《かれこれ》と言葉に出していわないことである。
 一首の意は、縦《たと》い千万の軍勢なりとも、彼此と言葉に云わずに、前触《まえぶれ》などせずに、直ちに討取って来る武将だとおもう、君は、というので、威勢をつけて行を盛《さかん》にしたものである。虫麿の此処の長歌も技法に屈折のあるものだが、虫麿歌集の長歌にもなかなか佳作があって、作者の力量をおもわしめるが、この短歌一首も、調べを強く緊《し》めて、武将を送るにふさわしい声調を出している。彼此いっても、この万葉調がもはや吾等には出来ない。

           ○

[#ここから5字下げ]
丈夫《ますらを》の行くとふ道ぞ凡《おほ》ろかに念《おも》ひて行《ゆ》くな丈夫《ますらを》の伴《とも》 〔巻六・九七四〕 聖武天皇
[#ここで字下げ終わり]
 聖武天皇御製。天平四年八月、節度使の制を東海・東山・山陰・西海の四道に布《し》いた。聖武天皇が其等の節度使等が任に赴《おもむ》く時に、酒を賜わり、この御製を作りたもうた。その長歌の反歌である。
 一首は、今出で立つ汝等節度使の任は、まさに大丈夫の行くべき行旅である。ゆめおろそかに思うな、大丈夫の汝等よ、と宣うので、功をおさめて早く帰れという大御心が含まれている。「行くとふ」の「とふ」は「といふ」で、天地のことわりとして人のいう意である。「おほろかに」は、おおよそに、軽々しく、平凡にぐらいの意で、「百種《ももくさ》の言《こと》ぞ隠《こも》れるおほろかにすな」(巻八・一四五六)、「おほろかに吾し思はば斯くばかり難き御門《みかど》を退《まか》り出《で》めやも」(巻十一・二五六八)等の例がある。御製は、調べ大きく高く、御慈愛に満ちて、闊達《かったつ》至極のものと拝誦し奉る。「大君の辺にこそ死なめ」の語のおのずからにして口を漏るるは、国民の自然のこえだということを念《おも》わねばならぬ。短歌はかくの如くであるが、長歌は、「食国《をすくに》の遠《とほ》の御朝廷《みかど》に、汝等《いましら》が斯《か》く罷《まか》りなば、平らけく吾は遊ばむ、手抱《たうだ》きて我は御在《いま》さむ、天皇《すめら》朕《わ》がうづの御手《みて》もち、掻撫《かきな》でぞ労《ね》ぎたまふ、うち撫でぞ労《ね》ぎたまふ、還《かへ》り来む日|相《あい》飲《の》まむ酒《き》ぞ、この豊御酒《とよみき》は」というのであり、「平らけく吾は遊ばむ[#「平らけく吾は遊ばむ」に白丸傍点]、手抱きて我はいまさむ[#「手抱きて我はいまさむ」に白丸傍点]」とは、慈愛|遍照《へんしょう》する現神《あきつかみ》のみ声である。

           ○

[#ここから5字下げ]
士《をのこ》やも空《むな》しかるべき万代《よろづよ》に語《かた》りつぐべき名《な》は立《た》てずして 〔巻六・九七八〕 山上憶良
[#ここで字下げ終わり]
 山上憶良の痾《やまい》に沈《しず》める時の歌一首で、巻五の、沈痾自哀文と思[#二]子等[#一]歌は、天平五年六月の作であるから、此短歌一首もその時作ったものであろう。また此歌の左注に、憶良が病んだ時、藤原朝臣八束《ふじわらのあそみやつか》(藤原|真楯《またて》)が、河辺朝臣|東人《あずまびと》を使として病を問わしめた、その時の作だとある。
 一首の意は、大丈夫たるものは、万代の後まで語り伝えられるような功名もせず、空しく此世を終るべきであろうか、というので、名も遂げずに此儘《このまま》死するのは残念だという意である。憶良は渡海して支那文化に直接接したから、此思想も彼には身に即《つ》いていて切実なものであったに相違ない。そこで此一首の調べも、重厚で、浮々していないし、また憶良の歌にしては連続流動的声調を持っているが、ただ後代の吾等にとっては稍大づかみに響くというだけである。結句原文、「名者不立之而」は旧訓ナハ・タタズシテであったのを、古義でナハ・タテズシテと訓んだ。旧訓の方が古調のようである。
 巻十九に、大伴家持が此歌に追和した長歌と短歌が載っている。長歌の方に、「あしひきの八峯《やつを》踏み越え、さしまくる情《こころ》障《さや》らず、後代《のちのよ》の語りつぐべく、名を立つべしも」(四一六四)とあり、短歌の方に、「丈夫《ますらを》は名をし立つべし後の代に聞き継ぐ人も語りつぐがね」(四一六五)とある。家持は憶良の此一首をも尊敬していたことが分かる。

           ○

[#ここから5字下げ]
振仰《ふりさ》けて若月《みかづき》見《み》れば一目《ひとめ》見《み》し人《ひと》の眉引《まよびき》おもほゆるかも 〔巻六・九九四〕 大伴家持
[#ここで字下げ終わり]
 大伴家持の作った、初月《みかづき》の歌である。大伴家持の年代の明かな歌中、最も早期のもので、家持十六歳ぐらいの時だろうといわれている。「眉引《まよびき》」は眉墨を以て眉を画くことで、薬師寺所蔵の吉祥天女、或は正倉院御蔵の樹下美人などの眉の如き最も具体的な例である。書紀仲哀巻に、譬如[#二]美女之※[#「目+碌のつくり」、上−205−3][#一]、有[#二]向津国[#一]。※[#「目+碌のつくり」、上−205−3]、此云[#二]麻用弭枳《マヨビキ》[#一]。古事記中巻、応神天皇御製歌に、麻用賀岐許邇加岐多礼《マヨカキコニカキタレ》、和名鈔《わみょうしょう》容飾具に、黛、和名|万由須美《マユスミ》。集中の例は、「おもはぬに到らば妹が嬉しみと笑《ゑ》まむ眉引《まよびき》おもほゆるかも」(巻十一・二五四六)、「我妹子が笑まひ眉引《まよびき》面影にかかりてもとな思ほゆるかも」(巻十二・二九〇〇)等がある。
 一首の意は、三日月を仰ぎ見ると、ただ一目見た美人の眉引のようである、というので、少年向きの美しい歌である。併し家持は少年にして斯く流暢《りゅうちょう》な歌調を実行し得たのであるから、歌が好きで、先輩の作や古歌の数々を勉強していたものであろう。この歌で、「一目見し」に家持は興味を持っている如くであるが、「一目見し人に恋ふらく天霧《あまぎ》らし零《ふ》り来る雪の消《け》ぬべく念ほゆ」(巻十・二三四〇)、「花ぐはし葦垣《あしがき》越《ご》しにただ一目相見し児ゆゑ千たび歎きつ」(巻十一・二五六五)等の例が若干ある。家持の歌は、斯く美しく、覚官的でもあるが、彼の歌には、なお、「なでしこが花見る毎に処女らが笑《ゑま》ひのにほひ思ほゆるかも」(巻十八・四一一四)、「秋風に靡《なび》く川びの柔草《にこぐさ》のにこよかにしも思ほゆるかも」(巻二十・四三〇九)の如き歌をも作っている。「笑《ゑま》ひのにほひ」は青年の体に即《つ》いた語でなかなか旨《うま》いところがある。併し此等の歌を以て、万葉最上級の歌と伍《ご》せしめるのはいかがとも思うが、万葉鑑賞にはこういう歌をもまた通過せねばならぬのである。

           ○

[#ここから5字下げ]
御民《みたみ》われ生《い》ける験《しるし》あり天地《あめつち》の栄《さか》ゆる時《とき》に遇《あ》へらく念《おも》へば 〔巻六・九九六〕 海犬養岡麿
[#ここで字下げ終わり]
 天平《てんぴょ
前へ 次へ
全54ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング