ずから華朗《かろう》で荘重である。けれどもそれだけ類型的、図案的で、特に人麿の歌句の模倣なども目立つのである。併し、この朗々とした荘重な歌調は、人麿あたりから脈を引いて、一つの伝統的なものであり、万葉調といえば、直ちに此種のものを聯想し得る程であるから、後代の吾等は時を以て顧《かえりみ》るべき性質のものである。巻九(一七三六)に、「山高み白木綿花《しらゆふはな》に落ちたぎつ夏実《なつみ》の河門《かはと》見れど飽かぬかも」というのがあるのは、恐らく此歌の模倣であろうから、そうすれば金村のこの形式的な一首も、時に人の注意を牽《ひ》いたに相違ない。

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奥《おき》つ島《しま》荒磯《ありそ》の玉藻《たまも》潮《しほ》干満《ひみ》ちい隠《かく》れゆかば思《おも》ほえむかも 〔巻六・九一八〕 山部赤人
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 聖武《しょうむ》天皇、神亀《じんき》元年冬十月紀伊国に行幸せられた時、従駕の山部赤人の歌った長歌の反歌である。「沖つ島」は沖にある島の意で、此処は玉津島《たまつしま》のことである。
 一首の意は、沖の島の荒磯に生えている玉藻刈もしたが、今に潮が満ちて来て荒磯が隠れてしまうなら、心残りがして、玉藻を恋しくおもうだろう、というのである。長歌の方で、「潮干れば玉藻苅りつつ、神代より然ぞ尊き、玉津島山」とあるのを受けている。
 第四句、板本《はんぽん》、「伊隠去者」であるから、「い隠《かく》れゆかば」或は「い隠《かく》ろひなば」と訓んだが、元暦校本・金沢本・神田本等に、「※[#「にんべん+弖」、上−192−12]隠去者」となっているから、「※[#「にんべん+弖」、上−192−12]」を上につけて「潮干みちて[#「みちて」に白丸傍点]隠《かく》ろひゆかば」とも訓んでいる。これは二つの訓とも尊重して味うことが出来る。
 この歌は、中心は、「潮干満ちい隠れゆかば思ほえむかも」にあり、赤人的に清淡の調であるが、なかに情感が漂《ただよ》っていて佳い歌である。海の玉藻に対する係恋《けいれん》とも云うべきもので、「思ほえむかも」は、多くは恋人とか旧都などに対して用いる言葉であるが、この歌では「玉藻」に云っている。もっとも集中には、例えば、「飼飯《けひ》の浦に寄する白浪しくしくに妹が容儀《すがた》はおもほゆるかも」(巻十二・三二〇〇)、「飫宇海《おうのうみ》の河原の千鳥汝が鳴けばわが佐保河《さほかは》のおもほゆらくに」(巻三・三七一)の如きがあって、共通して使われている。行幸に供奉《ぐぶ》し、赤人は歌人としての意識を以てこの歌を作ったのだろうが、必ずしも「宮廷歌人」などという意図が目立たずに、自由に個人としての好みを吐露《とろ》しているようである。一般が自由でこだわりのなかった聖世を反映していると謂っていい。また、「宮廷歌人」などと云っても、現代の人々の持っている「宮廷歌人」の西洋まがいの概念と違った気持で供奉《ぐぶ》したことをも知らねばならぬのである。

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若《わか》の浦《うら》に潮《しほ》満《み》ち来《く》れば潟《かた》を無《な》み葦辺《あしべ》をさして鶴《たづ》鳴《な》き渡《わた》る 〔巻六・九一九〕 山部赤人
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 赤人の歌続き。「若の浦」は今は和歌の浦と書くが、弱浜《わかはま》とも書いた(続紀)。また聖武天皇のこの行幸の時、明光の浦と命名せられた記事がある。「潟」は干潟《ひがた》の意である。
 一首の意は、若の浦にだんだん潮が満ちて来て、干潟が無くなるから、干潟に集まっていた沢山の鶴が、葦の生えて居る陸の方に飛んで行く、というのである。
 やはり此歌も清潔な感じのする赤人一流のもので、「葦べをさして鶴《たづ》鳴きわたる」は写象鮮明で旨いものである。また声調も流動的で、作者の気乗していることも想像するに難くはない。「潟をなみ」は、赤人の要求であっただろうが、微かな「理」が潜んでいて、もっと古いところの歌ならこうは云わない。例えば、既出の高市黒人作、「桜田へ鶴鳴きわたる年魚市潟《あゆちがた》潮干《しほひ》にけらし鶴鳴きわたる」(巻三・二七一)の如きである。つまり「潟をなみ」の第三句が弱いのである。これはもはや時代的の差違であろう。この歌は、古来有名で、叙景歌の極地とも云われ、遂には男波・女波・片男波の聯想にまで拡大して通俗化せられたが、そういう俗説を洗い去って見て、依然として後にのこる歌である。万葉集を通読して来て、注意すべき歌に標《しるし》をつけるとしたら、従来の評判などを全く知らずにいるとしても、標のつかる性質のものである。一般にいってもそういういいところが赤人の歌に存じているのである。ただこの歌に先行したのに、黒人の歌があるから黒人の影響乃至模倣ということを否定するわけには行かない。
 巻十五に、「鶴が鳴き葦辺をさして飛び渡るあなたづたづし独《ひとり》さ寝《ぬ》れば」(三六二六)、「沖辺より潮満ち来らし韓《から》の浦に求食《あさ》りする鶴鳴きて騒ぎぬ」(三六四二)等の歌があり、共に赤人の此歌の模倣であるから、その頃から此歌は尊敬せられていたのであろう。
 なお、「難波潟潮干に立ちて見わたせば淡路の島に鶴《たづ》わたる見ゆ」(巻七・一一六〇)、「円方《まとかた》の湊の渚鳥《すどり》浪立てや妻呼び立てて辺《へ》に近づくも」(同・一一六二)、「夕なぎにあさりする鶴《たづ》潮満てば沖浪《おきなみ》高み己妻《おのづま》喚《よ》ばふ」(同・一一六五)というのもあり、赤人の此歌と共に置いて味ってよい歌である。特に、「妻呼びたてて辺に近づくも」、「沖浪高み己妻|喚《よ》ばふ」の句は、なかなか佳いものだから看過《かんか》しない方がよいとおもう。

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み芳野《よしぬ》の象山《きさやま》の際《ま》の木末《こぬれ》には幾許《ここだ》も騒《さわ》ぐ鳥《とり》のこゑかも 〔巻六・九二四〕 山部赤人
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 聖武天皇神亀二年夏五月、芳野離宮に行幸の時、山部赤人の作ったものである。「象山《きさやま》」は芳野離宮の近くにある山で、「際《ま》」は「間《ま》」で、間《あいだ》とか中《なか》とかいう意味になる。「奈良の山の山の際《ま》にい隠るまで」(巻一・一七)という額田王の歌の「山の際」も奈良山の連なって居る間にという意。此処では、象山の中に立ち繁っている樹木というのに落着く。
 一首の意は、芳野の象山の木立の繁みには、実に沢山の鳥が鳴いて居る、というので、中味は単純であるが、それだけ此処に出ている中味が磨《みがき》をかけられて光彩を放つに至っている。この歌も前の歌の如く下半に中心が置かれ、「ここだも騒ぐ鳥の声かも」に作歌|衝迫《しょうはく》もおのずから集注せられている。この光景に相対《あいたい》したと仮定して見ても、「ここだも騒ぐ鳥の声かも」とだけに云い切れないから、此歌はやはり優れた歌で、亡友島木赤彦も力説した如く、赤人傑作の一つであろう。「幾許《ここだ》」という副詞も注意すべきもので、集中、「神柄《かむから》か幾許《ここだ》尊き」(巻二・二二〇)「妹が家《へ》に雪かも降ると見るまでに幾許《ここだ》もまがふ梅の花かも」(巻五・八四四)、「誰《た》が苑《その》の梅の花かも久方の清き月夜《つくよ》に幾許《ここだ》散り来る」(巻十・二三二五)等の例がある。この赤人の「幾許も騒ぐ」は、主に群鳥の声であるが、鳥の姿も見えていてかまわぬし、若干の鳥の飛んで見える方が却っていいかも知れない。また、結句の「かも」であるが、名詞から続く「かも」を据えるのはむずかしいのだけれども、この歌では、「ここだも騒ぐ」に続けたから声調が完備した。そういう点でも赤人の大きい歌人であることが分かる。

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ぬばたまの夜《よ》の深《ふ》けぬれば久木《ひさき》生《お》ふる清《きよ》き河原《かはら》に千鳥《ちどり》しば鳴《な》く 〔巻六・九二五〕 山部赤人
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 赤人作で前歌と同時の作である。「久木」は即ち歴木、楸《しゅう》樹で赤目柏《あかめがしわ》である。夏、黄緑の花が咲く。一首の意は、夜が更けわたると楸樹《ひさぎ》の立ちしげっている、景色よい芳野川の川原に、千鳥が頻《しき》りに鳴いて居る、というのである。
 この歌は夜景で、千鳥の鳴声がその中心をなしているが、今度の行幸に際して見聞した、芳野のいろいろの事が念中にあるので、それが一首の要素にもなって居る。「久木生ふる清き河原」の句も、現にその光景を見ているのでなくともよく、写象として浮んだものであろう。或は月明の川原とも解し得る、それは「清き」の字で補充したのであるが、月の事がなければやはりこの「清き」は川原一帯の佳景という意味にとる方がいいようである。併しこの歌は、そういう詮議《せんぎ》を必要としない程統一せられていて、読者は左程《さほど》解釈上思い悩むことが無くて済んでいるのは、視覚も聴覚も融合した、一つの感じで無理なく綜合《そうごう》せられて居るからである。或は、この歌は、深夜の千鳥の声だけでは物足りないのかも知れない。「久木生ふる清き河原」という、視覚上の要素が却って必要なのかも知れない。その辺の解明が能く私に出来ないけれども、全体として、感銘の新鮮な歌で、供奉歌人の歌として、人麿の、「見れど飽かぬ吉野《よしぬ》の河の常滑《とこなめ》の絶ゆることなくまたかへり見む」(巻一・三七)とも比較が出来るし、また、笠金村《かさのかなむら》とも同行したのだから、金村の、「万代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮どころ」(巻六・九二一)、「皆人の寿《いのち》も吾《われ》もみ吉野の滝の床磐《とこは》の常ならぬかも」(同・九二二)の二首とも比較することが出来る。比較して見ると、赤人の歌の方が具体的で、落着いて写生している。なお、声調のうち、第三句の「久木生ふる」という伸びた句と、結句の「しば鳴く」と端的に止めたのを注意していいだろう。

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島隠《しまがく》り吾《わ》が榜《こ》ぎ来《く》れば羨《とも》しかも大和《やまと》へのぼる真熊野《まくまぬ》の船《ふね》 〔巻六・九四四〕 山部赤人
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 山部赤人が、辛荷《からに》島を過ぎて詠んだ長歌の反歌である。辛荷島は播磨国室津の沖にある島である。一首の意は、島かげを舟に乗って榜《こ》いで来ると、羨《うらやま》しいことには、大和へのぼる熊野の舟が見える、というので、旅にいて家郷の大和をおもうのは、今から見ればただの常套《じょうとう》手段のように見えるが、当時の人には、そういう常套語が、既に一種の感動を伴って聞こえて来たものと見える。「真熊野の舟」は、熊野舟で、熊野の海で多く乗ったものであろう。攷證に、「紀州熊野は良材多かる所なれば、その材もて作りたるよしの謂《いひ》か。さればそれを本にて、いづくにて作れるをも、それに似たるをば熊野舟といふならん。集中、松浦船《まつらぶね》・伊豆手船《いづてぶね》・足柄小船《あしがらをぶね》などいふあるも、みなこの類とすべし」とあり、「浦回《うらみ》榜ぐ熊野舟つきめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし」(巻十二・三一七二)の例がある。「羨しかも」は、「羨しきかも」と同じだが当時は終止言からも直ぐ続けた。結句は、「真熊野の船」という名詞止めで、「棚無し小船」などの止めと同じだが、「の」が入っているので、それだけの落着《おちつき》がある。第三句の、「羨しかも」は小休止があるので、前の歌の「潟を無み」などと同様、幾らか此処で弛《たる》むが、これは赤人的手法の一つの傾向かも知れない。一首は、※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅《きりょ》の寂しい情を籠《こ》めつつ、赤人的諧調音で統一せられた佳作である。この時の歌に、「玉藻
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