比等第三子)が常陸守になって任地に数年いたが、任果てて京に帰る時、(養老七年頃か)常陸娘子《ひたちのおとめ》が贈った歌である。娘子は遊行女婦《うかれめ》のたぐいであろう。「庭に立つ」は、庭に植えたという意。「麻手」は麻のことで、巻十四(三四五四)に、「庭に殖《た》つ麻布《あさて》小ぶすま」の例がある。類聚古集に拠《よ》って「手」は「乎」だとすると分かりよいことは分かりよい。「刈り干し」までは、「しきしぬぶ」の序のようだが、これは意味の通ずる序だから、序詞をも意味の中に取入れていい。地方にいる遊行女婦が、こうして官人を持成《もてな》し優遇し、別れるにのぞんでは纏綿《てんめん》たる情味を与えたものであろう。そして農家のおとめのような風にして詠んでいるが、軽い諧謔《かいぎゃく》もあって、女らしい親しみのある歌である。「東女《あづまをみな》」と自ら云うたのも棄てがたい。
巻十四(三四五七)に、「うち日さす宮の吾背《わがせ》は大和女《やまとめ》の膝枕《ひざま》くごとに吾《あ》を忘らすな」というのがある。これは古代の東歌というよりも、京師から来た官人の帰還する時に詠んだ趣《おもむき》のものでこの歌に似ている。遊行女婦あたりの口吻だから、東歌の中にはこういう種類のものも交っていることが分かる。
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ここにありて筑紫《つくし》やいづく白雲《しらくも》の棚引《たなび》く山《やま》の方《かた》にしあるらし 〔巻四・五七四〕 大伴旅人
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大伴旅人が大納言になって帰京した。太宰府に残って、観世音寺造営に従っていた沙弥満誓《さみのまんぜい》から「真十鏡《まそかがみ》見飽《みあ》かぬ君に後《おく》れてや旦《あした》夕《ゆふべ》にさびつつ居らむ」(巻四・五七二)等の歌を贈った。それに和《こた》えた歌である。旅人の歌調は太く、余り剽軽《ひょうきん》に物をいえなかったところがあった。讃酒歌《さけをほむるうた》でも、「猿にかも似る」といっても、人を笑わせないところがある。旅人の歌調は、顫《ふるえ》が少いが、家持の歌調よりも太い。
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君《きみ》に恋《こ》ひいたも術《すべ》なみ平山《ならやま》の小松《こまつ》が下《した》に立《た》ち嘆《なげ》くかも 〔巻四・五九三〕 笠女郎
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笠女郎《かさのいらつめ》が大伴家持に贈った廿四首の中の一つである。平山《ならやま》は奈良の北にある那羅山《ならやま》で、其処に松が多かったことは、「平山《ならやま》の小松が末《うれ》の」(巻十一・二四八七)等の歌によっても分かる。これは家持に向って愬《うった》えているので、分かりよい、調子のなだらかな歌である。この歌の次に、「わが屋戸《やど》の夕影草《ゆふかげぐさ》の白露の消ぬがにもとな念《おも》ほゆるかも」(巻四・五九四)というのもあり、極めて流暢《りゅうちょう》に歌いあげている。相当の才女であるが、この時代になると、歌としての修練が既に必要になって来ているから、藤原朝あたりのものとも違って、もっと文学的にならんとしつつあるのである。併し此等の歌でも如何に快いものであるか、後代の歌に較べて、いまだ万葉の実質の残っていることをおもわねばならない。
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相《あひ》念《おも》はぬ人《ひと》を思《おも》ふは大寺《おほてら》の餓鬼《がき》の後《しりへ》にぬかづく如《ごと》し 〔巻四・六〇八〕 笠女郎
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笠女郎が家持に贈ったものである。当時の大寺には種々の餓鬼が画図として画かれ、或は木像などとして据えてあったものであろうか。あなたのように幾ら思っても甲斐ない方は、伽藍《がらん》の中に居る餓鬼像を後ろから拝むようなものではありませんか、というので、才気のまさった諧謔《かいぎゃく》の歌である。仏教の盛な時代であるから、才気の豊かな女等はこのくらいの事は常に云ったかも知れぬが、後代の吾等にはやはり諧謔的に心の働いた面白いものである。そしてこの歌でよいのは女の語気を直接に聞き得るごとくに感じ得る点にある。
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沖《おき》へ行《ゆ》き辺《へ》に行《ゆ》き今《いま》や妹《いも》がためわが漁《すなど》れる藻臥束鮒《もふしつかふな》 〔巻四・六二五〕 高安王
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高安王《たかやすのおおきみ》が鮒の土産《みやげ》を娘子《おとめ》に呉れたときの歌である。高安王は天平十四年正四位下で卒した人で、十一年|大原真人《おおはらのまひと》の姓を賜わっている。一首の意味は、この鮒は、深いところから岸の浅いところ方々《ほうぼう》歩いて、つかまえた藻の中にいた大鮒だが、おまえに持って来た、というぐらいの意で、「藻臥」は藻の中に住む、藻の中に潜むの意。「束鮒」は一束《ひとつか》、即ち一握《ひとにぎ》り(二寸程)ぐらいの長さをいう。この結句の造語がおもしろいので選んで置いた。巻十四(三四九七)の、「河上の根白高萱《ねじろたかがや》」などと同じ造語法である。
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月読《つくよみ》の光《ひかり》に来《き》ませあしひきの山《やま》を隔《へだ》てて遠《とほ》からなくに 〔巻四・六七〇〕 湯原王
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湯原王《ゆはらのおおきみ》の歌だが、娘子《おとめ》が湯原王に贈った歌だとする説(古義)のあるのは、この歌に女性らしいところがあるためであろう。併しこれはもっと楽《らく》に解して、女にむかってやさしく云ってやったともいうことが出来るだろう。また程近い処であるから女に促してやったということも云い得るのである。和《こた》うる歌に、「月読の光は清く照らせれどまどへる心堪へず念ほゆ」(巻四・六七一)とあるのは、女の語気としてかまわぬであろう。
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夕闇《ゆふやみ》は路《みち》たづたづし月《つき》待《ま》ちて行《ゆ》かせ吾背子《わがせこ》その間《ま》にも見《み》む 〔巻四・七〇九〕 大宅女
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豊前国の娘子|大宅女《おおやけめ》の歌である。この娘子の歌は今一首万葉(巻六・九八四)にある。「道たづたづし」は、不安心だという意になる。「その間にも見む」は、甘くて女らしい句である。此頃になると、感情のあらわし方も細《こまか》く、姿態《しな》も濃《こま》やかになっていたものであろう。良寛の歌に「月読の光を待ちて帰りませ山路は栗のいがの多きに」とあるのは、此辺の歌の影響だが、良寛は主に略解《りゃくげ》で万葉を勉強し、むずかしくない、楽《らく》なものから入っていたものと見える。
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ひさかたの雨《あめ》の降《ふ》る日《ひ》をただ独《ひと》り山辺《やまべ》に居《を》れば欝《いぶ》せかりけり 〔巻四・七六九〕 大伴家持
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大伴家持が紀女郎《きのいらつめ》に贈ったもので、家持はいまだ整わない新都の久邇《くに》京にいて、平城《なら》にいた女郎に贈ったものである。「今しらす久邇《くに》の京《みやこ》に妹《いも》に逢はず久しくなりぬ行きてはや見な」(巻四・七六八)というのもある。この歌は、もっと上代の歌のように、蒼古《そうこ》というわけには行かぬが、歌調が伸々《のびのび》として極めて順直なものである。家持の歌の優れた一面を代表する一つであろうか。
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巻第五
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世《よ》の中《なか》は空《むな》しきものと知《し》る時《とき》しいよよますます悲《かな》しかりけり 〔巻五・七九三〕 大伴旅人
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大伴旅人《おおとものたびと》は、太宰府に於て、妻|大伴郎女《おおとものいらつめ》を亡くした(神亀五年)。その時京師から弔問が来たのに報《こた》えた歌である。なおこの歌には、「禍故|重畳《ちようでふ》し、凶問|累《しきり》に集る。永く崩心の悲みを懐《いだ》き、独り断腸の泣《なみだ》を流す。但し両君の大助に依りて、傾命|纔《わづか》に継ぐ耳《のみ》。筆言を尽さず、古今の歎く所なり」という詞書が附いている。傾命は老齢のこと。両君は審《つまびら》かでない。
一首の意は、世の中が皆空・無常のものだということを、現実に知ったので、今迄よりもますます悲しい、というのである。
「知る時し」は、知る時に、知った時にという事であるが、今迄は経文により、説教により、万事空寂無常のことは聞及んでいたが、今|現《げん》に、自分の身に直接に、眼《ま》のあたりに、今の言葉なら、体験したという程のことを、「知る」と云ったのである。同じ用例には、「うつせみの世は常無《つねな》しと知るものを」(巻三・四六五。家持)、「世の中を常無きものと今ぞ知る」(巻六・一〇四五。不詳)、「世の中の常無きことは知るらむを」(巻十九・四二一六。家持)等がある。そこで「いよよますます」という語に続くのである。この歌には、仏教が入っているので、「空しきものと知る」というだけでも、当時にあっては、深い道理と情感を伴う語感を持っていただろう。一口にいえば思想的にも新しく且つ深かったものだろう。それが年月によって繰返されているうち、その新鮮の色があせつつ来たのであるが、旅人のこの歌頃までは、いまだ諳記《あんき》してものを云っているようなところのないのを鑑賞者は見免《みのが》してはならぬだろう。その証拠には、此処に引いた用例は皆旅人以後で、旅人の口吻の模倣といってよいのである。それから、結句の、「悲しかりけり」であるが、これは漢文なら、「独り断腸の泣《なみだ》を流す」というところを、日本語では、「悲しかりけり」というのである。これを以て、日本語の貧弱を云々してはならぬ。短詩形としての短歌の妙味もむずかしい点も此処に存するものだからである。大体以上の如くであるが、後代の吾等から見れば、此歌を以て満足だというわけには行かぬ。それはなぜかというに、思想的抒情詩はむずかしいもので、誰が作っても旅人程度を出で難いものだからである。併しそれを正面から実行した点につき、この方面の作歌に一つの基礎をなした点につき、旅人に満腔《まんこう》の尊敬を払うて茲《ここ》に一首を選んだのであった。
旅人の妻、大伴郎女の死した時、旅人は、「愛《うつく》しき人《ひと》の纏《ま》きてし敷妙《しきたへ》の吾が手枕《たまくら》を纏《ま》く人あらめや」(巻三・四三八)等三首を作っているが、皆この歌程大観的ではない。序にいうが、巻三(四四二)に、膳部王《かしわでべのおおきみ》を悲しんだ歌に、「世の中は空しきものとあらむとぞこの照る月は満闕《みちかけ》しける」という作者不詳の歌がある。王の薨去は天平元年だから、やはり旅人の歌の方が早い。
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悔《くや》しかも斯《か》く知《し》らませばあをによし国内《くぬち》ことごと見《み》せましものを 〔巻五・七九七〕 山上憶良
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大伴旅人の妻が死んだ時、山上憶良《やまのうえのおくら》が、「日本挽歌」(長歌一首反歌五首)を作って、「神亀五年七月二十一日、筑前国守山上憶良上」として旅人に贈った。即ちこの長歌及び反歌は、旅人の心持になって、恰《あたか》も自分の妻を悼《いた》むような心境になって、旅人の妻の死を悼んだものである。それだから、この「山上憶良上」云々という注が無ければ、無論憶良が自分の妻の死を悼んだものとして受取り得る性質のものである。因《よ》って鑑賞者は、この歌の作者は憶良でも、旅人の妻即ち大伴郎女《おおとものいらつめ》の死を念中に持って味うことが必要なのである。
一首の意は、こうして妻に別れねばならぬのが分かっていたら、筑紫の国々を残るくまなく見物させてやるのであ
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