って、二人で作った庭は、こんなにも木が大きくなり、繁茂するようになったというので、単純明快のうちに尽きぬ感慨がこもっている。結句の、「なりにけるかも」というのは、「秋萩の枝もとををに露霜おき寒くも時はなりにけるかも」(巻十・二一七〇)、「竹敷《たかしき》のうへかた山は紅《くれなゐ》の八入《やしほ》の色になりにけるかも」(巻十五・三七〇三)、「石ばしる垂水《たるみ》のうへのさ蕨《わらび》の萌《も》えいづる春になりにけるかも」(巻八・一四一八)等の如くに成功している。同じく旅人が、「昔見し象《きさ》の小河を今見ればいよいよ清《さや》けくなりにけるかも」(巻三・三一六)という歌を作っていて効果をおさめているのは、旅人の歌調が概《おおむ》ね直線的で太いからでもあろうか。
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あしひきの山《やま》さへ光《ひか》り咲《さ》く花《はな》の散《ち》りぬるごとき吾《わ》が大《おほ》きみかも 〔巻三・四七七〕 大伴家持
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天平十六年二月、安積皇子《あさかのみこ》(聖武天皇皇子)薨じた時(御年十七)、内舎人《うどねり》であった大伴家持の作ったものである。此時家持は長短歌六首作って居る。一首の意は、満山の光るまでに咲き盛っていた花が一時に散ったごとく、皇子は逝《ゆ》きたもうた、というのである。家持の内舎人になったのは天平十二年頃らしく、此作は家持の初期のものに属するであろうが、こころ謹しみ、骨折って作っているのでなかなか立派な歌である。家持は、父の旅人があのような歌人であり、夙《はや》くから人麿・赤人・憶良等の作を集めて勉強したのだから、此等六首を作る頃には、既に大家の風格を具《そな》えているのである。
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巻第四
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山《やま》の端《は》に味鳬《あぢ》群騒《むらさわ》ぎ行《ゆ》くなれど吾《われ》はさぶしゑ君《きみ》にしあらねば 〔巻四・四八六〕 舒明天皇
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岳本天皇《おかもとのすめらみこと》御製一首並短歌とある、その短歌である。岳本天皇は即ち舒明天皇を申奉るのであるが、御製歌には女性らしいところがあるので、左注には後岳本天皇《のちのおかもとのすめらみこと》即ち斉明《さいめい》天皇の御製ではなかろうかと疑問を附している。それだから此疑問は随分古いものだということが分かるが、その精しい考証は現在の私には不可能である。攷證では、「この御製は、女をおぼしめして詠せ給ふにて」と明かにしている。
一首の意は、山の端をば味鴨《あじがも》が群れ鳴いて、騒ぎ飛行くように、多くの人が通り行くけれども、私は寂しゅうございます、その人々はあなたではありませぬから、というので、やはり女性の歌として解釈するのである。そんなら作者は後岳本天皇即ち斉明天皇にましますかというに、それも私にはよく分からぬ。ただ岳本天皇御製とあるのだから、天皇がこういう恋愛情調をたたえた民謡風な抒情詩を御作りになったと解釈申上げてもよく、或は岳本天皇時代のこの抒情詩が、天皇御製歌として伝誦せられ来ったとも解釈することが出来るのである。いずれにしても歌は女性の口吻《こうふん》であること既に前賢が注意したごとくである。次に、この歌の、「あぢ群さわぎ行くなれど」の句をば、実際あじ鴨の群が飛んでゆくのを御覧になったのか、それとも譬喩《ひゆ》で、あじ鴨が騒いで飛行くように人が群れ騒ぎ行くというのか、先輩の解釈にも二とおりある。けれども私は「山の端にあぢ群さわぎ」は、「行く」に続く意味のある序詞だと解した。そして誰が「行く」のかといえば、「人」が行くのであって、これは長歌の方で、「人さはに国には満ちて、あぢ群の去来《ゆきき》は行けど、吾が恋ふる君にしあらねば」とあるのに拠っても分かる。即ち、あじ群の騒ぎ行くように人等が行くけれどもと解釈したのであって、その方が寧ろ古調だとおもうのである。
私はこの御製を、素朴な抒情詩の優れたものとして選んだ。特に、「あぢむら騒ぎ」という句に心を牽《ひ》かれたのであった。こういう実景を見つつ、その写象によって序詞を作ったのを感心したためであった。もっとも、此用法は、「奥べには鴨妻|喚《よ》ばひ、辺《へ》つべに味《あぢ》むら騒ぎ」(巻三・二五七)、「なぎさには味むら騒ぎ」(巻十七・三九九一)の如く実際味むらの居る処として表わしたものもあり、「あぢむらの騒ぎ競《きほ》ひて浜に出でて」(巻二十・四三六〇)のごとく、実際あじ群の居るのでなく、枕詞に使った処もあるが、いずれにしても古風な気持の好い用い方である。ことに、短歌の方で、単に「行くなれど」と云って、長歌の方の、「人さはに」という主格をも含めた用法にも感心したのであった。この歌に比べると、「秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れども不楽《さぶ》し君にしあらねば」(巻十・二二九〇)、「み冬つぎ春は来れど梅の花君にしあらねば折る人もなし」(巻十七・三九〇一)などは、調子が弱くなって、もはや弛《たる》んでいる。また、「うち日さす宮道《みやぢ》を人は満ちゆけど吾が念《おも》ふ公《きみ》はただ一人のみ」(巻十一・二三八二)という類似の歌もあるが、この方はもっと分かりよい。
この次に、「淡海路《あふみぢ》の鳥籠《とこ》の山なるいさや川|日《け》の此頃《このごろ》は恋ひつつもあらむ」(巻四・四八七)という歌があり、上半は序詞だが、やはり古調で佳い歌である。そしてこの方は男性の歌のような語気だから、或はこれが御製で、「山の端に」の歌は天皇にさしあげた女性の歌ででもあろうか。
以上、「あぢむら騒ぎ」までを序詞として解釈したが、「夏麻《なつそ》引く海上潟《うなかみがた》の沖つ洲に鳥はすだけど君は音《おと》もせず」(巻七・一一七六)、「吾が門の榎《え》の実《み》もり喫《は》む百千鳥千鳥は来れど君ぞ来まさぬ」(巻十六・三八七二)というのがあって、これは実際鳥の群集する趣だから、これを標準とせば、「あぢむら騒ぎ」も実景としてもいいかも知れぬが、この巻七の歌も巻十六の歌もよく味うと、やはり海鳥を写象として、その聯想によって「すだけど」、或は「来れど」と云っているのだということが分かり、属目光景では無いのである。
この御製を、女性らしい御語気だと云ったが、代匠記では男の歌とし、毛詩|鄭風《ていふう》の、出[#(バ)][#二]其東門[#(ヲ)][#一]、有[#レ]女如[#(シ)][#レ]雲、雖[#二]則如[#(シト)][#一レ]雲、匪[#(ズ)][#二]我思[#(ノ)]存[#(スルニ)][#一]を引いている。即ち「君」を女と解している。攷證でも、「この御製は、女をおぼしめして詠せ給ふにて」、「吾は君とは違ひて、誘《サソ》ふ人もあらざれば、いとさびしとのたまふにて、君は定めて誘ふ人もあまたありぬべしとの御心を、味村の飛ゆくさまをみそなはして、つゞけ給へる也」と云っている。どちらが本当か、後賢の判断を俟《ま》っている。
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君《きみ》待《ま》つと吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》れば吾《わ》が屋戸《やど》の簾《すだれ》うごかし秋《あき》の風《かぜ》吹《ふ》く 〔巻四・四八八〕 額田王
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額田王《ぬかだのおおきみ》が近江天皇(天智天皇)をお慕いもうして詠まれたものである。王ははじめ大海人皇子《おおあまのみこ》(天武天皇)の許《もと》に行かれて十市皇女《とおちのひめみこ》を生み、のち天智天皇に寵《ちょう》せられたことは既に云ったが、これは近江に行ってから詠まれたものであろう。
一首の意は、あなたをお待申して、慕わしく居りますと、私の家の簾を動かして秋の風がおとずれてまいります、というのである。
この歌は、当りまえのことを淡々といっているようであるが、こまやかな情味の籠った不思議な歌である。額田王は才気もすぐれていたが情感の豊かな女性であっただろう。そこで知らず識らずこういう歌が出来るので、この歌の如きは王の歌の中にあっても才鋒《さいほう》が目立たずして特に優れたものの一つである。この歌でただ、「簾動かし秋の風吹く」とだけ云ってあるが、女性としての音声さえ聞こえ来るように感ぜられるのは、ただ私の気のせいばかりでなく、つまり、結句の「秋の風ふく」の中に、既に女性らしい愬《うった》えを聞くことが出来るといい得るのである。また、風の吹いて来るのは恋人の来る前兆だという一種の信仰のようなものがあったと説く説(古義)もあるがどういうものであるか私には能《よ》く分からない。ただそうすれば却って歌柄《うたがら》が小さくなってしまうようだから、此処は素直に文字どおりにただ天皇をお慕い申す恋歌として受取った方が好いようである。
この歌の次に、鏡王女《かがみのおおきみ》の作った、「風をだに恋ふるはともし風をだに来むとし待たば何か歎かむ」(巻四・四八九)という歌が載っている。王女は額田王の御姉に当る人で、はじめ天智天皇に寵せられ、のち藤原|鎌足《かまたり》の正室になった人だから、恐らく此時近江の京に住んでいたのであろう。そして、額田王の此歌を聞いて、額田王にやったものであろう。この歌にも広い意味の贈答歌の味いがあり、姉妹のあいだの情味がこもっている。併し万葉集には、妹に和《こた》えた歌とは云っていない。
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今更《いまさら》に何《なに》をか念《おも》はむうち靡《なび》きこころは君《きみ》に寄《よ》りにしものを 〔巻四・五〇五〕 安倍女郎
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安倍女郎《あべのいらつめ》(伝不詳)の作った二首中の一つである。女性の声の直接伝わり来るような特色ある歌として選んだが、そうして見ると、素直でなかなか佳いところがある。前に既に「君に寄りななこちたかりとも」(巻二・一一四)の歌を引いたが、この歌はもっと分かり易くなって来て居る。
なお、この歌の次に「吾背子は物な念《おも》ほし事しあらば火にも水にも吾無けなくに」(巻四・五〇六)という歌があって、やはり同一作者だが、女性の情熱を云っている。併しこれも女性の語気として受取る方がよく、此時代になると、感情も一般化して分かりよくなっている。寧ろ、「事しあらば小泊瀬山《をはつせやま》の石城《いはき》にも籠《こも》らば共にな思ひ吾が背《せ》」(巻十六・三八〇六)の方が、古い味いがあるように思える。巻十六の歌は後に選んで置いた。
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大原《おほはら》のこの市柴《いつしば》の何時《いつ》しかと吾《わ》が念《も》ふ妹《いも》に今夜《こよひ》逢《あ》へるかも 〔巻四・五一三〕 志貴皇子
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志貴皇子の御歌で「市柴《いつしば》」は巻八(一六四三)に「この五柴《いつしば》に」とあるのと同じく、繁った柴のことだといわれている。「いつしかと」に続けた序詞だが、実際から来ている序詞である。「大原」は高市郡小原の地なることは既に云った。この歌で心を牽《ひ》いたのは、「今夜逢へるかも[#「今夜逢へるかも」に白丸傍点]」という句にあったのだが、この句は、巻十(二〇四九)に、「天漢《あまのがは》川門《かはと》にをりて年月を恋ひ来し君に今夜《こよひ》逢へるかも」というのがある。
なお、この巻(五二四)に、「蒸《むし》ぶすまなごやが下に臥せれども妹とし寝《ね》ねば肌《はだ》し寒しも」という藤原麻呂の歌もあり、覚官的のものだが、皇子の御歌の方が感深いようである。此等の歌は取立てて秀歌という程のものでは無いが、ついでを以て味うの便となした。
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庭《には》に立《た》つ麻手《あさて》刈《かり》り干《ほ》ししき慕《しぬ》ぶ東女《あづまをみな》を忘《わす》れたまふな 〔巻四・五二一〕 常陸娘子
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藤原|宇合《うまかい》(藤原不
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