るということがないのに、私はただ一人で寝なければならぬ、というのである。万葉では、譬喩歌《ひゆか》というのに分類しているが、内容は恋歌で、鴨に寄せたのだといえばそうでもあろうが、もっと直接で、どなたかに差し上げた御歌のようである。単に内容からいえば、読人知らずの民謡的な歌にこういうのは幾らもあるが、この歌のよいのは、そういう一般的でない皇女に即した哀調が読者に伝わって来るためである。土屋文明氏の万葉集年表に、巻十二(三〇九八)に関する言《い》い伝《つたえ》を参照し、恋人の高安王《たかやすのおおきみ》が伊豫に左遷せられた時の歌だろうかと考えている。

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陸奥《みちのく》の真野《まぬ》の草原《かやはら》遠《とほ》けども面影《おもかげ》にして見《み》ゆとふものを 〔巻三・三九六〕 笠女郎
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 笠女郎《かさのいらつめ》(伝不詳)が大伴|家持《やかもち》に贈った三首の一つである。「真野」は、今の磐城相馬郡真野村あたりの原野であろう。一首の意は、陸奥の真野の草原《かやはら》はあんなに遠くとも面影に見えて来るというではありませぬか、それにあなたはちっとも御見えになりませぬ、というのであるが、なお一説には「陸奥の真野の草原《かやはら》」までは「遠く」に続く序詞で、こうしてあなたに遠く離れておりましても、あなたが眼前に浮んでまいります。私の心持がお分かりになるでしょう、と強めたので、「見ゆとふものを」は、「見えるというものを」で、人が一般にいうような云い方をして確《たしか》めるので、この云い方のことは既に云ったごとく、「見ゆというものなるを」、「見ゆるものなるを」というに落着くのである。女郎《いらつめ》が未だ若い家持に愬《うった》える気持で甘えているところがある。万葉末期の細みを帯びた調子だが、そういう中にあっての佳作であろうか。また序詞などを使って幾分民謡的な技法でもあるが、これも前の紀皇女《きのひめみこ》の御歌と同じく、女郎《いらつめ》に即したものとして味うと特色が出て来るのである。

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百《もも》伝《つた》ふ磐余《いはれ》の池《いけ》に鳴《な》く鴨《かも》を今日《けふ》のみ見《み》てや雲隠《くもがく》りなむ 〔巻三・四一六〕 大津皇子
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 題詞には、大津皇子被[#レ]死之時、磐余池|般《ツツミ》流[#レ]涕《ナミダ》御作歌一首とある。即ち、大津皇子の謀反《むほん》が露《あら》われ、朱鳥《あかみとり》元年十月三日|訳語田舎《おさだのいえ》で死を賜わった。その時詠まれた御歌である。持統紀に、庚午賜[#二]死皇子大津於訳語田舎[#一]、時[#(ニ)]年二十四。妃皇女|山辺《ヤマノベ》被[#レ]髪徒跣奔赴殉焉。見者皆歔欷とある。磐余の池は今は無いが、磯城郡安倍村大字池内のあたりだろうと云われている。「百伝ふ」は枕詞で、百《もも》へ至るという意で五十《い》に懸け磐余《いわれ》に懸けた。
 一首の意は、磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのであるか、というので、「雲隠る」は、「雲がくります」(巻三・四四一)、「雲隠りにき」(巻三・四六一)などの如く、死んで行くことである。また皇子はこのとき、「金烏臨[#二]西舎[#一]、鼓声催[#二]短命[#一]、泉路無[#二]賓主[#一]、此夕離[#レ]家向」という五言臨終一絶を作り、懐風藻《かいふうそう》に載った。皇子は夙《はや》くから文筆を愛し、「詩賦の興《おこり》は大津より始まる」と云われたほどであった。
 この歌は、臨終にして、鴨のことをいい、それに向って、「今日のみ見てや」と歎息しているのであるが、斯く池の鴨のことを具体的に云ったために却って結句の「雲隠りなむ」が利いて来て、「今日のみ見てや」の主観句に無限の悲響が籠ったのである。池の鴨はその年も以前の年の冬にも日頃見給うたのであっただろうが、死に臨んでそれに全性命を托された御語気は、後代の吾等の驚嘆せねばならぬところである。有間皇子は、「ま幸くあらば」といい、大津皇子は、「今日のみ見てや」といった。大津皇子の方が、人麿などと同じ時代なので、主観句に沁むものが出来て来ている。これは歌風の時代的変化である。契沖は代匠記で、「歌ト云ヒ詩ト云ヒ声ヲ呑テ涙ヲ掩《おほ》フニ遑《いとま》ナシ」と評したが、歌は有間皇子の御歌等と共に、万葉集中の傑作の一つである。また妃|山辺皇女《やまべのひめみこ》殉死の史実を随伴した一悲歌として永久に遺されている。因《ちなみ》に云うに、山辺皇女は天智天皇の皇女、御母は蘇我|赤兄《あかえ》の女《むすめ》である。赤兄大臣は有間皇子が、「天与[#二]赤兄[#一]知」と答えられた、その赤兄である。

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豊国《とよくに》の鏡《かがみ》の山《やま》の石戸《いはと》立《た》て隠《こも》りにけらし待《ま》てど来《き》まさぬ 〔巻三・四一八〕 手持女王
石戸《いはと》破《わ》る手力《たぢから》もがも手弱《たよわ》き女《をみな》にしあれば術《すべ》の知《し》らなく 〔巻三・四一九〕 同
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 河内王《かふちのおおきみ》を豊前国鏡山(田川郡香春町附近勾金村字鏡山)に葬った時、手持女王《たもちのおおきみ》の詠まれた三首中の二首である。河内王は持統三年に太宰帥《だざいのそち》となった方で、持統天皇八年四月五日|賻物《はふりもの》を賜った記事が見えるから、その頃卒せられたものと推定せられる(土屋氏)。手持女王の伝は不明である。「石戸」は石棺を安置する石槨《せっかく》の入口を、石を以て塞ぐので石戸というのである。これ等の歌も追悼するのに葬った御墓のことを云っている。第一の歌では、「待てど来まさぬ」の句に中心感情があり、同じ句は万葉に幾つかあるけれども、この句はやはりこの歌に専属のものだという気味がするのである。第二の歌の、「石戸わる手力もがも」は、その時の心その儘であろう。二つとも女性としての云い方、その語気が自然に出ていて挽歌としての一特色をなしている。共に悲しみの深い歌で、第二の歌の誇張らしいのも、女性の心さながらのものだからであろう。

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八雲《やくも》さす出雲《いづも》の子等《こら》が黒髪《くろかみ》は吉野《よしぬ》の川《かは》の奥《おき》になづさふ 〔巻三・四三〇〕 柿本人麿
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 出雲娘子《いずものおとめ》が吉野川で溺死した。それを吉野で火葬に附した時、柿本人麿の歌った歌二首の一つで、もう一つのは、「山の際《ま》ゆ出雲の児等は霧なれや吉野の山の嶺に棚引く」(巻三・四二九)というので、当時大和では未だ珍しかった火葬の烟《けむり》の事を歌っている。この歌の、「八雲さす」は「出雲」へかかる枕詞。「子等」の「等」は複数を示すのでなく、親しみを出すために附けた。生前美しかった娘子の黒髪が吉野川の深い水に漬《つか》ってただよう趣で、人麿がそれを見たか人言に聞きかしたものであろう。いずれにしてもその事柄を中心として一首を纏《まと》めている。そして人麿はどんな対象に逢着しても熱心に真心を籠めて作歌し、自分のために作っても依頼されて作っても、そういうことは殆ど一如にして実行した如くである。

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われも見《み》つ人《ひと》にも告げむ葛飾《かつしか》の真間《まま》の手児名《てこな》が奥津城処《おくつきどころ》 〔巻三・四二三〕 山部赤人
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 山部赤人が下総葛飾の真間娘子《ままのおとめ》の墓を見て詠んだ長歌の反歌である。手児名《てこな》は処女《おとめ》の義だといわれている。「手児」(巻十四・三三九八・三四八五)の如く、親の手児という意で、それに親しみの「な」の添《そ》わったものと云われている。真間に美しい処女《おとめ》がいて、多くの男から求婚されたため、入水した伝説をいうのである。伝説地に来ったという旅情のみでなく、評判の伝説娘子に赤人が深い同情を持って詠んでいる。併し徒《いたず》らに激しい感動語を以てせずに、淡々といい放って赤人一流の感懐を表現し了せている。それが次にある、「葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻苅りけむ手児名しおもほゆ」(巻三・四三三)の如きになると、余り淡々とし過ぎているが、「われも見つ人にも告げむ」という簡潔な表現になると赤人の真価があらわれて来る。後になって家持が、「万代の語《かたら》ひ草と、未だ見ぬ人にも告げむ」(巻十七・四〇〇〇)云々と云って、この句を学んで居る。赤人は富士山をも詠んだこと既に云った如くだから、赤人は東国まで旅したことが分かる。

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吾妹子《わぎもこ》が見《み》し鞆《とも》の浦《うら》の室《むろ》の木《き》は常世《とこよ》にあれど見《み》し人《ひと》ぞ亡《な》き 〔巻三・四四六〕 大伴旅人
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 太宰帥《だざいのそち》大伴旅人が、天平二年冬十二月、大納言になったので帰京途上、備後《びんご》鞆の浦を過ぎて詠んだ三首中の一首である。「室の木」は松杉科の常緑喬木、杜松(榁)であろう。当時鞆の浦には榁《むろ》の大樹があって人目を引いたものと見える。一首の意は、太宰府に赴任する時には、妻も一しょに見た鞆の浦の室《むろ》の木《き》は、今も少しも変りはないが、このたび帰京しようとして此処を通る時には妻はもう此世にいない、というので、「吾妹子」と、「見し人」とは同一人である。「人」は後に、「根はふ室の木見し人」、「人も無き空しき家」といってある如く、妻・吾妹子の意味に「人」を用いている。旅人の歌は明快で、顫動《せんどう》が足りないともおもうが、「見し人ぞ亡き」に詠歎が籠っていて感深い歌である。

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妹《いも》と来《こ》し敏馬《みぬめ》の埼《さき》を還《かへ》るさに独《ひとり》して見《み》れば涙《なみだ》ぐましも 〔巻三・四四九〕 大伴旅人
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 前の歌と同様、旅人が帰京途上、摂津の敏馬海岸を過ぎて詠んだものである。「涙ぐましも」という句は、万葉には此一首のみであるが、古事記(日本紀)仁徳巻に、「やましろの筒城《つつき》の宮にもの申すあが背《せ》の君《きみ》は(吾兄《わがせ》を見れば)泪《なみだ》ぐましも」の一首がある。この句は、この時代に出来た句だから、大体の調和は古代語にある。そこで、近頃、散文なり普通会話なりに多く用いる、「涙ぐましい」という語は不調和である。
 この歌は、余り苦心して作っていないようだが、声調にこまかいゆらぎがあって、奥から滲出で来る悲哀はそれに本づいている。旅人の歌は、あまり早く走り過ぎる欠点があったが、この歌にはそれが割合に少く、そういう点でもこの歌は旅人作中の佳作ということが出来るであろう。旅人は、讃酒歌《さけをほむるうた》のような思想的な歌をも自在に作るが、こういう沁々《しみじみ》としたものをも作る力量を持っていた。なおこの時、「往くさには二人吾が見しこの埼をひとり過ぐれば心悲しも」(巻三・四五〇)という歌をも作った。やはり哀《あわれ》深い歌である。

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妹《いも》として二人《ふたり》作《つく》りし吾《わ》が山斎《しま》は木高《こだか》く繁《しげ》くなりにけるかも 〔巻三・四五二〕 大伴旅人
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 旅人が家に帰って来て、妻のいない家を寂しみ、太宰府で亡くした妻を悲しむ歌で、このほかに、「人もなき空《むな》しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり」(巻三・四五一)、「吾妹子《わぎもこ》がうゑし梅の木見る毎に心むせつつ涕《なみだ》し流る」(同・四五三)の二首を作っているが、共にあわれ深い。
 此一首の意は、亡くなった妻と一しょにな
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