する寓意《ぐうい》があろうという説もある。例えば、「満誓、女など見られてたはぶれに詠れたるにて、かの綿を積かさねなどしたるが、暖げに見ゆるを女によそへられたるなるべし」(攷證)というたぐいである。この寓意説は駄目だが、それだけこの歌が肉体的なものを持っている証拠ともなり、却ってこの歌を浅薄な観念歌にしてしまわなかった由縁とも考え得るのである。即ち作歌動機は寓目即事でも、出来上った歌はもっと暗指的な象徴的なものになっている。結句、旧訓アタタカニミユであったのを、宣長はアタタケクミユと訓んだ。なおこの歌につき、契沖は、「綿ヲ多ク積置ケルヲ見テ綿ノ功用ヲホムルナリ」(代匠記精撰本)「綿の見るより暖げなりといふに心を得ば、慈悲ある人には慈悲の相あらはれ、※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢《けうまん》の人には※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢の相《さう》あらはれ、よろづにかゝるべきことはりなれば、いましめとなりぬべき哥《うた》にや」(代匠記初稿本)と云ったが、真淵は、「さまでの意はあるべからず、打見たるままに心得べし」(考)と云った。

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憶良等《おくらら》は今《いま》は罷《まか》らむ子《こ》哭《な》くらむその彼《か》の母《はは》も吾《わ》を待《ま》つらむぞ 〔巻三・三三七〕 山上憶良
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 山上憶良臣《やまのうえのおくらのおみ》宴《うたげ》を罷《まか》る歌一首という題がある。憶良は、大宝元年遣唐使に従い少録として渡海、慶雲元年帰朝、霊亀二年|伯耆《ほうき》守、神亀三年頃筑前守、天平五年の沈痾自哀《ちんあじあい》文(巻五・八九七)には年七十四と書いてある。この歌は多分筑前守時代の作で、そして、この前後に、大伴旅人、沙弥満誓、防人司佑大伴四綱《さきもりのつかさのすけおおとものよつな》の歌等があるから、太宰府に於ける宴会の時の歌であろう。
 一首の意味は、この憶良はもう退出しよう。うちには子どもも泣いていようし、その彼等の母(即ち憶良の妻)も待っていようぞ、というのである。「其彼母毛」は、ソノカノハハモと訓み、「その彼《か》の(子供の)母も」という意味になる。
 憶良は万葉集の大家であるが、飛鳥《あすか》朝、藤原朝あたりの歌人のものに親しんで来た眼には、急に変ったものに接するように感ぜられる。即ち、一首の声調が如何にもごつごつしていて、「もののふの八十《やそ》うぢがはの網代木《あじろぎ》に」というような伸々《のびのび》した調子には行かない。一首の中に、三つも「らむ」を使って居りながら、訥々《とつとつ》としていて流動の響に乏しい。「わが背子は何処ゆくらむ沖つ藻《も》の名張《なばり》の山をけふか越ゆらむ」(巻一・四三)という「らむ」の使いざまとも違うし、結句に、「吾を待つらむぞ」と云っても、人麿の「妹見つらむか」とも違うのである。そういう風でありながら、何処かに実質的なところがあり、軽薄平俗になってしまわないのが其特色である。またそういう滑《なめら》かでない歌調が、当時の人にも却って新しく響いたのかも知れない。憶良は、大正昭和の歌壇に生活の歌というものが唱えられた時、いち早くその代表的歌人のごとくに取扱われたが、そのとおり憶良の歌には人間的な中味があって、憶良の価値を重からしめて居る。
 諧謔《かいぎゃく》微笑のうちにあらわるる実生活的直接性のある此歌だけを見てもその特色がよく分かるのである。この一首は憶良の短歌ではやはり傑作と謂うべきであろう。憶良は歌を好み勉強もしたことは類聚歌林《るいじゅうかりん》を編んだのを見ても分かる。併し大体として、日本語の古来の声調に熟し得なかったのは、漢学素養のために乱されたのかも知れない。巻一(六三)の、「いざ子どもはやく大和《やまと》へ大伴《おほとも》の御津《みつ》の浜松待ち恋ひぬらむ」という歌は有名だけれども、調べが何処か弱くて物足りない。これは寧ろ、黒人の、「いざ児ども大和へ早く白菅《しらすげ》の真野《まぬ》の榛原《はりはら》手折《たを》りて行かむ」(巻三・二八〇)の方が優《まさ》っているのではなかろうか。そういう具合であるが、憶良にはまた憶良的なものがあるから、後出の歌に就いて一言費す筈である。
 大伴家持の歌に、「春花のうつろふまでに相見ねば月日|数《よ》みつつ妹待つらむぞ」(巻十七・三九八二)というのがある。此は天平十九年三月、恋緒を述ぶる歌という長短歌の中の一首であるが、結句の「妹待つらむぞ」はこの憶良の歌の模倣である。なお「ぬばたまの夜渡る月を幾夜|経《ふ》と数《よ》みつつ妹《いも》は我待つらむぞ[#「我待つらむぞ」に白丸傍点]」(巻十八・四〇七二)、「居りあかし今宵は飲まむほととぎす明けむあしたは鳴きわたらむぞ[#「鳴きわたらむぞ」に白丸傍点]」(同・四〇六八)というのがあり、共に家持の作であるのは吾等の注意していい点である。

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験《しるし》なき物《もの》を思《おも》はずは一坏《ひとつき》の濁《にご》れる酒《さけ》を飲《の》むべくあるらし 〔巻三・三三八〕 大伴旅人
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 太宰帥大伴旅人の、「酒を讃《ほ》むる歌」というのが十三首あり、此がその最初のものである。「思はずは」は、「思はずして」ぐらいの意にとればよく、従来は、「思はむよりは寧ろ」と宣長流に解したが、つまりはそこに落着くにしても、「は」を詠歎の助詞として取扱うようになった(橋本博士)。
 一首の意は、甲斐ない事をくよくよ思うことをせずに、一坏の濁酒《にごりざけ》を飲むべきだ、というのである。つまらぬ事にくよくよせずに、一坏の濁醪《どぶろく》でも飲め、というのが今の言葉なら、旅人のこの一首はその頃の談話言葉と看做《みな》してよかろう。即ち、そういう対人間的、会話的親しみが出ているのでこの歌が活躍している。独り歌った如くであって相手を予想する親しみがある。その直接性があるために、私等は十三首の第一にこの歌を置くが、旅人の作った最初の歌がやはりこれでなかっただろうか。
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酒の名を聖《ひじり》と負《おほ》せし古《いにしへ》の大《おほ》き聖《ひじり》の言《こと》のよろしさ (巻三・三三九)
古《いにしへ》の七《なな》の賢《さか》しき人等《ひとたち》も欲《ほ》りせしものは酒《さけ》にしあるらし (同・三四〇)
賢《さか》しみと物《もの》言《い》ふよりは酒《さけ》飲みて酔哭《ゑひなき》するし益《まさ》りたるらし (同・三四一)
言《い》はむすべせむすべ知らに(知らず)極《きは》まりて貴《たふと》きものは酒《さけ》にしあるらし (同・三四二)
なかなかに人《ひと》とあらずは酒壺《さかつぼ》に成りてしかも酒《さけ》に染《し》みなむ (同・三四三)
あな醜《みにく》賢《さか》しらをすと酒《さけ》飲《の》まぬ人をよく見《み》れば猿《さる》にかも似《に》る(よく見ば猿にかも似む) (同・三四四)
価《あたひ》無《な》き宝《たから》といふとも一坏《ひとつき》の濁《にご》れる酒《さけ》に豈《あに》まさらめや (同・三四五)
夜《よる》光《ひか》る玉《たま》といふとも酒《さけ》飲《の》みて情《こころ》を遣《や》るに豈《あに》如《し》かめやも (同・三四六)
世《よ》の中《なか》の遊《あそ》びの道《みち》に冷《すず》しきは酔哭《ゑひなき》するにありぬべからし (同・三四七)
この代《よ》にし楽《たぬ》しくあらば来《こ》む世《よ》には虫《むし》に鳥《とり》にも吾《われ》はなりなむ (同・三四八)
生者《いけるもの》遂《つひ》にも死《し》ぬるものにあれば今世《このよ》なる間《ま》は楽《たぬ》しくをあらな (同・三四九)
黙然《もだ》居《を》りて賢《さか》しらするは酒《さけ》飲《の》みて酔泣《ゑひなき》するになほ如《し》かずけり (同・三五〇)
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 残りの十二首は即ち右の如くである。一種の思想ともいうべき感懐を詠じているが、如何に旅人はその表現に自在な力量を持っているかが分かる。その内容は支那的であるが、相当に複雑なものを一首一首に応じて毫も苦渋なく、ずばりずばりと表わしている。その支那文学の影響については先覚の諸注釈書に譲るけれども、顧《かえりみ》れば此等の歌も、当時にあっては、今の流行語でいえば最も尖端的なものであっただろうか。けれども今の自分等の考から行けば、稍遊離した態度と謂うべく、思想的抒情詩のむつかしいのはこれ等大家の作を見ても分かるのである。今、選抜の歌に限あるため、一首のみを取って全体を代表せしめることとした。

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武庫《むこ》の浦《うら》を榜《こ》ぎ回《た》む小舟《をぶね》粟島《あはしま》を背向《そがひ》に見《み》つつともしき小舟《をぶね》 〔巻三・三五八〕 山部赤人
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 山部赤人の歌六首中の一首である。「武庫の浦」は、武庫川の河口から西で、今の神戸あたり迄一帯をいった。「粟島」は巻九(一七一一)に、「粟の小島し見れど飽かぬかも」とある、「粟の小島」と同じ場処であろうが、現在何処に当るか不明である。淡路の北端あたりだろうという説がある。一首の意は、武庫の浦を榜ぎめぐり居る小舟よ。粟島を横斜に見つつ榜ぎ行く、羨しい小舟よ、というので、「小舟」を繰返していても、あらあらしくないすっきりした感じを与えている。あとの五首も大体そういう特色のものだから、此一首を以て代表せしめた。
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繩《なは》の浦ゆ背向《そがひ》に見ゆる奥《おき》つ島|榜《こ》ぎ回《た》む舟は釣し(釣を)すらしも (巻三・三五七)
阿倍《あべ》の島|鵜《う》の住む磯に寄する浪|間《ま》なくこのごろ大和し念《おも》ほゆ (同・三五九)
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吉野《よしぬ》なる夏実《なつみ》の河《かは》の川淀《かはよど》に鴨《かも》ぞ鳴《な》くなる山《やま》かげにして 〔巻三・三七五〕 湯原王
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 湯原王《ゆはらのおおきみ》が吉野で作られた御歌である。湯原王の事は審《つまびらか》でないが、志貴皇子《しきのみこ》の第二子で光仁天皇の御兄弟であろう。日本後紀に、「延暦廿四年十一月(中略)壱志濃王薨、田原天皇之孫、湯原親王之第二子」云々とある。「夏実」は吉野川の一部で、宮滝の上流約十町にある。今菜摘と称している。(土屋氏に新説ある。)
 一首の意は、吉野にある夏実の川淵に鴨が鳴いている。山のかげの静かなところだ、というので、これは現に鴨の泳いでいるのを見て作ったものであろう。結句の、「山かげにして」は、鴨の泳いでいる夏実の淀淵の説明だが、結果から云えば一首に響く大切な句で、作者の感慨が此処にこもり、意味は場処の説明でも、一首全体の声調からいえばもはや単なる説明ではなくなっている。こういう結句の効果については、前出の人麿の歌(巻三・二五四)の処でも説明した。此歌は従来叙景歌の極致として取扱われたが、いかにもそういうところがある。ただ佳作と評価する結論のうちに、抒情詩としての声調という点を抜きにしてはならぬのである。また此歌の有名になったのは、一面に万葉調の歌の中では分かり好いためだということもある。一首の中に、「なる」の音が二つもあり、加行の音の多いのなども分析すれば分析し得るところである。

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軽《かる》の池《いけ》の浦《うら》回行《みゆ》きめぐる鴨《かも》すらに玉藻《たまも》のうへに独《ひと》り宿《ね》なくに 〔巻三・三九〇〕 紀皇女
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 紀皇女《きのひめみこ》の御歌で、皇女は天武天皇皇女で、穂積皇子《ほづみのみこ》の御妹にあられる。一首の意は、軽の池の岸のところを泳ぎ廻っているあの鴨でも、玉藻の上にただ一つで寝
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