ったのに、今となって残念でならぬ、というのである。
 この歌の「知る」は前の歌の「知る」と稍違って、知れている、分かっている程の意である。次に、「あをによし」という語は普通、「奈良」に懸る枕詞であるのに、憶良は「国内」に続けている。そんなら、「国内」は大和・奈良あたりの意味かというに、そう取っては具合が悪い。やはり筑紫の国々と取らねばならぬところである。そこで種々説が出たのであるが、憶良は必ずしも伝統的な日本語を使わぬ事があるので、或は、「あをによし」の意味をただ山川の美しいというぐらいの意に取ったものと考えられる。(憶良は、「あをによし奈良の都に」(巻五・八〇八)とも使っている。)次に、この歌は、初句から、「くやしかも」と置いているのは、万葉集としては珍らしく、寧ろ新古今集時代の手法であるが、憶良は平然としてこういう手法を実行している。もっともこの手法は、「苦しくも降り来る雨か」などという主観句の短いものと看做《みな》せば説明のつかぬことはない。
 この歌を味うと、内容に質実的なところがあるが、声調が訥々《とつとつ》としていて、沁《し》み透《とお》るものが尠《すくな》いので、つまりは常識の発達したぐらいな感情として伝わって来る。併し声調が流暢《りゅうちょう》過ぎぬため、却って軽佻《けいちょう》でなく、質朴の感を起こさせるのである。家持の歌に、「かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを」(巻十七・三九五九)というのがある。これは弟の書持《ふみもち》の死を悼《いた》んだものであるが、この憶良の歌から影響を受けているところを見ると、大伴家に伝わった此等の歌をも読味ったことが分かる。
 この日本挽歌一首(長歌反歌)は、憶良が旅人の心になって、旅人の心に同感して、旅人の妻の死を哀悼《あいとう》したという説に従ったが、これは、憶良の妻の死を、憶良が直接悼んでいるのだと解釈する説があり、岸本|由豆流《ゆずる》の万葉集|攷證《こうしょう》にも、「或人の説に、こは憶良の妻身まかりしにはあるべからず、こは大伴卿の心になりて、憶良の作られけるならんといへれど、さる証もなければとりがたし」と云っている程である。(なお、大柳直次氏の同説がある。)併し、歌の中の妻の死んだのも夏であり、その他の種々の関係が、旅人の妻の死を悼んだ歌として解釈する方が穏《おだや》かのように思える。「筑前国守山上憶良上」をば、憶良自身の妻の死を悼んだ歌を旅人に示したものとして、「大伴卿も同じ思ひに歎かるゝころなれば、かの卿に見せられけるなるべし」(攷證)というのであるが、ただそれだけでは証拠不充分であるし、憶良の妻が筑紫で歿したという記録が無いのだから、これを以て直ぐ憶良の妻の死を悼んだのだと断定するわけにも行かぬのである。併し全体が、自分の妻を哀悼するような口吻であるから、茲に両説が対立することとなるのであるが、鑑賞者は、憶良が此歌を作っても、旅人の妻の死を旅人が歎いているという心持に仮りになって味えば面倒ではないのである。

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妹《いも》が見《み》し楝《あふち》の花《はな》は散《ち》りぬべし我《わ》が泣《な》く涙《なみだ》いまだ干《ひ》なくに 〔巻五・七九八〕 山上憶良
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 前の歌の続《つづき》で、憶良が旅人の心に同化して旅人の妻を悼んだものである。楝《おうち》は即ち栴檀《せんだん》で、初夏のころ薄紫の花が咲く。
 一首の意は、妻の死を悲しんで、わが涙の未だ乾かぬうちに、妻が生前喜んで見た庭前の楝《おうち》の花も散ることであろう、というので、逝《ゆ》く歳月の迅《はや》きを歎じ、亡妻をおもう情の切なことを懐《おも》うのである。
 この楝の花は、太宰府の家にある楝であろう。そして、作者の憶良も太宰府にいて、旅人の心になって詠んだからこういう表現となるのである。この歌は、意味もとおり言葉も素直に運ばれて、調べも感動相応の重みを持っているが、飛鳥・藤原あたりの歌調に比して、切実の響を伝え得ないのはなぜであるか。恐らく憶良は伝統的な日本語の響に真に合体し得なかったのではあるまいか。後に発達した第三句切が既にここに実行せられているのを見ても分かるし、「朝日照る佐太《さだ》の岡辺に群れゐつつ吾が哭《な》く涙止む時もなし」(巻二・一七七)、「御立《みたち》せし島を見るとき行潦《にはたづみ》ながるる涙止めぞかねつる」(巻二・一七八)ぐらいに行くのが寧ろ歌調としての本格であるのに、此歌は其処までも行っていない。この歌は、従来万葉集中の秀歌として評価せられたが、それは、分かり易い、無理のない、感情の自然を保つ、挽歌らしいというような点があるためで、実は此歌よりも優れた挽歌が幾つも前行しているのである。
 天平十一年夏六月、大伴家持は亡妾を悲しんで、「妹が見し屋前《やど》に花咲き時は経ぬわが泣く涙いまだ干なくに」(巻三・四六九)という歌を作っている。これは明かに憶良の模倣であるから、家持もまた憶良の此一首を尊敬していたということが分かるのである。恐らく家持は此歌のいいところを味い得たのであっただろう。(もっとも家持は此時人麿の歌をも多く模倣して居る。)

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大野山《おほぬやま》霧《きり》たちわたる我《わ》が嘆《なげ》く息嘯《おきそ》の風《かぜ》に霧《きり》たちわたる 〔巻五・七九九〕 山上憶良
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 此歌も前の続である。「大野山」は和名鈔《わみょうしょう》に、「筑前国御笠郡大野」とある、その地の山で、太宰府に近い。「おきそ」は、宣長は、息嘯《おきうそ》の略とし、神代紀に嘯之時《ウソブクトキニ》迅風忽起とあるのを証とした。
 一首の意は、今、大野山を見ると霧が立っている、これは妻を歎く自分の長大息の、風の如く強く長い息のために、さ霧となって立っているのだろう、というので、神代紀に、「吹きうつる気噴《いぶき》のさ霧に」、万葉に、「君がゆく海べの屋戸に霧たたば吾《あ》が立ち嘆く息《いき》と知りませ」(巻十五・三五八〇)、「わが故に妹歎くらし風早《かざはや》の浦の奥《おき》べに霧棚引けり」(同・三六一五)、「沖つ風いたく吹きせば我妹子が嘆きの霧に飽かましものを」(同・三六一六)等とあるのと同じ技法である。ただ万葉の此等の歌は憶良のこの歌よりも後であろうか。
 此一首も、「霧たちわたる」を繰返したりして強く云っていて、線も太く、能働的であるが、それでもやはり人麿の歌の声調ほどの顫動が無い。例えば前出の、「ともしびの明石大門に入らむ日や榜ぎわかれなむ家のあたり見ず」(巻三・二五四)あたりと比較すればその差別もよく分かるのであるが、憶良は真面目になって骨折っているので、一首は質実にして軽薄でないのである。なお、天平七年、大伴坂上郎女が尼|理願《りがん》を悲しんだ歌に、「嘆きつつ吾が泣く涙、有間山雲居棚引き、雨に零《ふ》りきや」(巻三・四六〇)という句があり、同じような手法である。

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ひさかたの天道《あまぢ》は遠《とほ》しなほなほに家《いへ》に帰《かへ》りて業《なり》を為《し》まさに 〔巻五・八〇一〕 山上憶良
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 山上憶良は、或る男が、両親妻子を軽んずるのをみて、その不心得を諭《さと》して、「惑情を反《かへ》さしむる歌」というのを作った、その反歌がこの歌である。長歌の方は、「父母を見れば尊し、妻子《めこ》見ればめぐし愛《うつく》し、世の中はかくぞ道理《ことわり》」、「地《つち》ならば大王《おほきみ》います、この照らす日月の下は、天雲《あまぐも》の向伏《むかふ》す極《きはみ》、谷蟆《たにぐく》のさ渡る極、聞《きこ》し食《を》す国のまほらぞ」というのが、その主な内容で、現実社会のおろそかにしてはならぬことを云ったものである。
 反歌の此一首は、おまえは青雲の志を抱いて、天へも昇るつもりだろうが、天への道は遼遠《りょうえん》だ、それよりも、普通並に、素直に家に帰って、家業に従事しなさい、というのである。「なほなほに」は、「直直《なほなほ》に」で、素直に、尋常に、普通並にの意、「延《は》ふ葛の引かば依り来ね下《した》なほなほに」(巻十四・三三六四或本歌)の例でも、素直にの意である。結句の、「業《なり》を為《し》まさに」は、「業《なり》を為《し》まさね」で、「ね」と「に」が相通い、当時から共に願望の意に使われるから、この句は、「業務に従事しなさい」という意となる。
 この歌も、その声調が流動性でなく、寧《むし》ろ佶屈《きっくつ》とも謂《い》うべきものである。然るに内容が実生活の事に関しているのだから、声調おのずからそれに同化して憶良独特のものを成就《じょうじゅ》したのである。事が娑婆《しゃば》世界の実事であり、いま説いていることが儒教の道徳観に本《もと》づくとせば、縹緲《ひょうびょう》幽遠な歌調でない方が却って調和するのである。由来儒教の観相は実生活の常識であるから、それに本づいて出来る歌も亦結局其処に帰着するのである。憶良は、伝誦されて来た古歌謡、祝詞《のりと》あたりまで溯《さかのぼ》って勉強し、「谷ぐくのさわたるきはみ」等というけれども、作る憶良の歌というものは何処か漢文的口調のところがある。併し、万葉集全体から見れば、憶良は憶良らしい特殊の歌風を成就したということになるから、その憶良的な歌の出来のよい一例としてこれを選んで置いた。

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銀《しろがね》も金《くがね》も玉《たま》もなにせむにまされる宝《たから》子《こ》に如《し》かめやも 〔巻五・八〇三〕 山上憶良
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 山上憶良は、「子等を思ふ歌」一首(長歌反歌)を作った。序は、「釈迦如来、金口《こんく》に正しく説き給はく、等しく衆生《しゆじやう》を思ふこと、羅※[#「目+喉のつくり」、第3水準1−88−88]羅《らごら》の如しと。又説き給はく、愛は子に過ぎたるは無しと。至極の大聖すら尚ほ子を愛《うつく》しむ心あり。況《ま》して世間《よのなか》の蒼生《あをひとぐさ》、誰か子を愛《を》しまざらめや」というものであり、長歌は、「瓜《うり》食《は》めば子等《こども》思ほゆ、栗《くり》食《は》めば況してしぬばゆ、何処《いづく》より来《きた》りしものぞ、眼交《まなかひ》にもとな懸《かか》りて、安寝《やすい》し為《な》さぬ」というので、この長歌は憶良の歌としては第一等である。簡潔で、飽くまで実事を歌い、恐らく歌全体が憶良の正体と合致したものであろう。
 この反歌は、金銀珠宝も所詮《しょせん》、子の宝には及ばないというので、長歌の実事を詠んだのに対して、この方は綜括《そうかつ》的に詠んだ。そして憶良は仏典にも明るかったから、自然にその影響がこの歌にも出たものであろう。「なにせむに」は、「何かせむ」の意である。憶良の語句の仏典から来たのは、「古日《ふるひ》を恋ふる歌」(巻五・九〇四)にも、「世の人の貴み願ふ、七種《ななくさ》の宝も我は、なにせむに、我が間《なか》の生れいでたる、白玉の吾が子|古日《ふるひ》は」とあるのを見ても分かる。七宝は、金・銀・瑠璃《るり》・※[#「石+車」、第3水準1−89−5]※[#「石+渠」、第3水準1−89−12]《しゃこ》・碼碯《めのう》・珊瑚《さんご》・琥珀《こはく》または、金・銀・琉璃《るり》・頗※[#「犂」の「牛」に代えて「木」、第4水準2−14−90]《はり》・車渠《しゃこ》・瑪瑙・金剛《こんごう》である。そういう仏典の新しい語感を持った言葉を以て、一首を為立《した》て、堅苦しい程に緊密な声調を以て終始しているのに、此一首の佳い点があるだろう。けれども長歌に比してこの反歌の劣るのは、後代の今となって見れば言語の輪廓として受取られる弱点が存じているためである。併し、旅人の讃《ホムル》[#レ]酒[#(ヲ)]歌にせよ、この歌にせ
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