も、天皇のうえをおもいたもうて、その遊猟の有様に聯想《れんそう》し、それを祝福する御心持が一首の響に滲透《しんとう》している。決して代作態度のよそよそしいものではない。そこで代作説に賛成する古義でも、「此|題詞《ハシツクリ》のこゝろは、契沖も云るごとく、中皇女のおほせによりて間人連老が作《ヨミ》てたてまつれるなるべし。されど意はなほ皇女の御意を承りて、天皇に聞えあげたるなるべし」と云っているのは、この歌の調べに云うに云われぬ愛情の響があるためで、古義は理論の上では間人連老の作だとしても、鑑賞の上では、皇女の御意云々を否定し得ないのである。此一事軽々に看過してはならない。それから、この歌はどういう形式によって献られたかというに、「皇女のよみ給ひし御歌を老《オユ》に口誦《クジユ》して父天皇の御前にて歌はしめ給ふ也」(檜嬬手)というのが真に近いであろう。
 一首は、豊腴《ほうゆ》にして荘潔、些《いささか》の渋滞なくその歌調を完《まっと》うして、日本古語の優秀な特色が隈《くま》なくこの一首に出ているとおもわれるほどである。句割れなどいうものは一つもなく、第三句で「て」を置いたかとおもうと、第四句で、「朝踏ますらむ」と流動的に据えて、小休止となり、結句で二たび起して重厚荘潔なる名詞止にしている。この名詞の結句にふかい感情がこもり余響が長いのである。作歌当時は言語が極《きわ》めて容易に自然にこだわりなく運ばれたとおもうが、後代の私等には驚くべき力量として迫って来るし、「その」などという続けざまでも言語の妙いうべからざるものがある。長歌といいこの反歌といい、万葉集中最高峰の一つとして敬うべく尊むべきものだとおもうのである。
 この長歌は、「やすみしし吾《わが》大王《おほきみ》の、朝《あした》にはとり撫《な》でたまひ、夕《ゆふべ》にはい倚《よ》り立たしし、御執《みと》らしの梓弓《あずさのゆみ》の、長弭《ながはず》(中弭《なかはず》)の音すなり、朝猟《あさかり》に今立たすらし、暮猟《ゆふかり》に今立たすらし、御執《みと》らしの梓弓の、長弭(中弭)の音すなり」(巻一・三)というのである。これも流動声調で、繰返しによって進行せしめている点は驚くべきほど優秀である。朝猟夕猟と云ったのは、声調のためであるが、実は、朝猟も夕猟もその時なされたと解することも出来るし、支那の古詩にもこの朝猟夕猟と続けた例がある。梓弓はアヅサユミノと六音で読む説が有力だが、「安都佐能由美乃《アヅサユミノ》」(巻十四・三五六七)によって、アヅサノユミノと訓んだ。その方が口調がよいからである。なお参考歌には、天武天皇御製に、「その[#「その」に白丸傍点]雪の時なきが如《ごと》、その[#「その」に白丸傍点]雨の間なきが如《ごと》、隈《くま》もおちず思ひつつぞ来る、その[#「その」に白丸傍点]山道を」(巻一・二五)がある。なお山部赤人の歌に、「朝猟に鹿猪《しし》履《ふ》み起し、夕狩に鳥ふみ立て、馬|並《な》めて御猟ぞ立たす、春の茂野《しげぬ》に」(巻六・九二六)がある。赤人のには此歌の影響があるらしい。「馬なめて」もよい句で、「友なめて遊ばむものを、馬なめて往《ゆ》かまし里を」(巻六・九四八)という用例もある。

           ○

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山越《やまごし》の風《かぜ》を時《とき》じみ寝《ぬ》る夜《よ》落《お》ちず家《いへ》なる妹《いも》をかけて偲《しぬ》びつ 〔巻一・六〕 軍王
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 舒明天皇が讃岐《さぬき》国|安益《あや》郡に行幸あった時、軍王《いくさのおおきみ》の作った長歌の反歌である。軍王の伝は不明であるが、或は固有名詞でなく、大将軍《いくさのおおきみ》のことかも知れない(近時題詞の軍王見山を山の名だとする説がある)。天皇の十一年十二月伊豫の温湯《ゆ》の宮《みや》に行幸あったから、そのついでに讃岐安益郡(今の綾歌《あやうた》郡)にも立寄られたのであっただろうか。「時じみ」は非時、不時などとも書き、時ならずという意。「寝る夜おちず」は、寝る毎晩毎晩欠かさずにの意。「かけて」は心にかけての意である。
 一首の意は、山を越して、風が時ならず吹いて来るので、ひとり寝る毎夜毎夜、家に残っている妻を心にかけて思い慕うた、というのである。言葉が順当に運ばれて、作歌感情の極めて素直にあらわれた歌であるが、さればといって平板に失したものでなく、捉《とら》うべきところは決して免《の》がしてはいない。「山越しの風」は山を越して来る風の意だが、これなども、正岡子規が嘗《かつ》て注意した如く緊密で巧《たくみ》な云い方で、この句があるために、一首が具体的に緊《し》まって来た。この語には、「朝日かげにほへる山に照る月の飽かざる君を山越《やまごし》に置きて」(巻
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