四・四九五)の例が参考となる。また、「かけて偲ぶ」という用例は、その他の歌にもあるが、心から離さずにいるという気持で、自然的に同感を伴うために他にも用例が出来たのである。併しこの「懸く」という如き云《い》い方はその時代に発達した云い方であるので、現在の私等が直ちにそれを取って歌語に用い、心の直接性を得るという訣《わけ》に行かないから、私等は、語そのものよりも、その語の出来た心理を学ぶ方がいい。なおこの歌で学ぶべきは全体としてのその古調である。第三句の字余りなどでもその破綻《はたん》を来さない微妙な点と、「風を時じみ」の如く圧搾《あっさく》した云い方と、結句の「つ」止めと、そういうものが相待って綜合《そうごう》的な古調を成就しているところを学ぶべきである。第三句の字余りは、人麿の歌にも、「幸《さき》くあれど」等があるが、後世の第三句の字余りとは趣がちがうので破綻|云々《うんぬん》と云った。「つ」止めの参考歌には、「越の海の手結《たゆひ》の浦を旅にして見ればともしみ大和しぬびつ」(巻三・三六七)等がある。
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秋《あき》の野《ぬ》のみ草苅《くさか》り葺《ふ》き宿《やど》れりし兎道《うぢ》の宮処《みやこ》の仮廬《かりいほ》し思《おも》ほゆ 〔巻一・七〕 額田王
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額田王《ぬかだのおおきみ》の歌だが、どういう時に詠《よ》んだものか審《つまびら》かでない。ただ兎道《うじ》は山城の宇治で、大和と近江との交通路に当っていたから、行幸などの時に仮の御旅宿を宇治に設けたもうたことがあったのであろう。その時額田王は供奉《ぐぶ》し、後に当時を追懐して詠んだものと想像していい。額田王は、額田姫王と書紀にあるのと同人だとすると、額田王は鏡王《かがみのおおきみ》の女で、鏡女王《かがみのおおきみ》の妹であったようだ。初め大海人皇子《おおあまのみこ》と御婚《みあい》して十市皇女《とおちのひめみこ》を生み、ついで天智天皇に寵《ちょう》せられ近江京に行っていた。「かりいほ」は、原文「仮五百《かりいほ》」であるが真淵の考《こう》では、カリホと訓んだ。
一首の意。嘗《かつ》て天皇の行幸に御伴をして、山城の宇治で、秋の野のみ草(薄《すすき》・萱《かや》)を刈って葺《ふ》いた行宮《あんぐう》に宿《やど》ったときの興深かったさまがおもい出されます。
この歌は、独詠的の追懐であるか、或は対者にむかってこういうことを云ったものか不明だが、単純な独詠ではないようである。意味の内容がただこれだけで取りたてていうべき曲が無いが、単純素朴のうちに浮んで来る写象は鮮明で、且つその声調は清潔である。また単純な独詠歌でないと感ぜしめるその情味が、この古調の奥から伝わって来るのをおぼえるのである。この古調は貴むべくこの作者は凡ならざる歌人であった。
歌の左注に、山上憶良《やまのうえのおくら》の類聚歌林《るいじゅうかりん》に、一書によれば、戊申年《つちのえさるのとし》、比良宮に行幸の時の御製云々とある。この戊申の歳を大化四年とすれば、孝徳天皇の御製ということになるが、今は額田王の歌として味うのである。題詞等につき、万葉の編輯当時既に異伝があったこと斯くの如くである。
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熟田津《にぎたづ》に船乗《ふなの》りせむと月待《つきま》てば潮《しほ》もかなひぬ今《いま》は榜《こ》ぎ出《い》でな 〔巻一・八〕 額田王
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斉明天皇が(斉明天皇七年正月)新羅《しらぎ》を討ちたまわんとして、九州に行幸せられた途中、暫時伊豫の熟田津《にぎたづ》に御滞在になった(熟田津|石湯《いわゆ》の行宮)。其時お伴をした額田王の詠んだ歌である。熟田津という港は現在何処かというに、松山市に近い三津浜だろうという説が有力であったが、今はもっと道後温泉に近い山寄りの地(御幸寺山附近)だろうということになっている。即ち現在はもはや海では無い。
一首の意は、伊豫の熟田津で、御船が進発しようと、月を待っていると、いよいよ月も明月となり、潮も満ちて船出するのに都合好くなった。さあ榜ぎ出そう、というのである。
「船乗り」は此処ではフナノリという名詞に使って居り、人麿の歌にも、「船乗りすらむをとめらが」(巻一・四〇)があり、また、「播磨国より船乗して」(遣唐使時奉幣祝詞)という用例がある。また、「月待てば」は、ただ月の出るのを待てばと解する説もあるが、此は満潮を待つのであろう。月と潮汐とには関係があって、日本近海では大体月が東天に上るころ潮が満始るから、この歌で月を待つというのはやがて満潮を待つということになる、また書紀の、「庚戌泊[#二]于伊豫熟田津石湯行宮[#一]」とある庚戌《かのえ
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