いぬ》は十四日に当る。三津浜では現在陰暦の十四日頃は月の上る午後七、八時頃八合満となり午後九時前後に満潮となるから、此歌は恰《あたか》も大潮の満潮に当ったこととなる。すなわち当夜は月明であっただろう。月が満月でほがらかに潮も満潮でゆたかに、一首の声調大きくゆらいで、古今に稀なる秀歌として現出した。そして五句とも句割がなくて整調し、句と句との続けに、「に」、「と」、「ば」、「ぬ」等の助詞が極めて自然に使われているのに、「船乗せむと[#「せむと」に白丸傍点]」、「榜ぎいでな[#「いでな」に白丸傍点]」という具合に流動の節奏を以て緊《し》めて、それが第二句と結句である点などをも注意すべきである。結句は八音に字を余し、「今は」というのも、なかなか強い語である。この結句は命令のような大きい語気であるが、縦《たと》い作者は女性であっても、集団的に心が融合し、大御心をも含め奉った全体的なひびきとしてこの表現があるのである。供奉応詔歌の真髄もおのずからここに存じていると看《み》ればいい。
結句の原文は、「許芸乞菜」で、旧訓コギコナであったが、代匠記初稿本で、「こぎ出なとよむべきか」という一訓を案じ、万葉集燈でコギイデナと定めるに至った。「乞」をイデと訓《よ》む例は、「乞我君《イデアギミ》」、「乞我駒《イデワガコマ》」などで、元来さあさあと促がす詞《ことば》であるのだが「出で」と同音だから借りたのである。一字の訓で一首の価値に大影響を及ぼすこと斯くの如くである。また初句の「熟田津に」の「に」は、「に於《おい》て」の意味だが、橘守部《たちばなのもりべ》は、「に向って」の意味に解したけれどもそれは誤であった。斯《か》く一助詞の解釈の差で一首の意味が全く違ってしまうので、訓詁《くんこ》の学の大切なことはこれを見ても分かる。
なお、この歌は山上憶良の類聚歌林に拠《よ》ると、斉明天皇が舒明天皇の皇后であらせられた時一たび天皇と共に伊豫の湯に御いでになられ、それから斉明天皇の九年に二たび伊豫の湯に御いでになられて、往時を追懐遊ばされたとある。そうならば此歌は斉明天皇の御製であろうかと左注で云っている。若しそれが本当で、前に出た宇智野の歌の中皇命が斉明天皇のお若い時(舒明皇后)だとすると、この秀歌を理会するにも便利だとおもうが、此処では題どおりに額田王の歌として鑑賞したのであった。
橘守部は、「熟田津に」を「に向って」と解し、「此歌は備前の大伯《オホク》より伊与の熟田津へ渡らせ給ふをりによめるにこそ」と云ったが、それは誤であった。併し、「に」に方嚮《ほうこう》(到着地)を示す用例は無いかというに、やはり用例はあるので、「粟島《あはしま》に漕ぎ渡らむと思へども明石《あかし》の門浪《となみ》いまだ騒げり」(巻七・一二〇七)。この歌の「に」は方嚮を示している。
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紀《き》の国《くに》の山《やま》越《こ》えて行《ゆ》け吾《わ》が背子《せこ》がい立《た》たせりけむ厳橿《いつかし》がもと 〔巻一・九〕 額田王
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紀の国の温泉に行幸(斉明)の時、額田王の詠んだ歌である。原文は、「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気、吾瀬子之《ワガセコガ》、射立為兼《イタタセリケム》、五可新何本《イツカシガモト》」というので、上半の訓がむずかしいため、種々の訓があって一定しない。契沖が、「此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ」と歎じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だと謂《い》っていい。そこで評釈する時に、一首として味うことが出来ないから回避するのであるが、私は、下半の、「吾が背子がい立たせりけむ厳橿《いつかし》が本《もと》」に執着があるので、この歌を選んで仮りに真淵の訓に従って置いた。下半の訓は契沖の訓(代匠記)であるが、古義では第四句を、「い立たしけむ」と六音に訓み、それに従う学者が多い。厳橿《いつかし》は厳《おごそ》かな橿の樹で、神のいます橿の森をいったものであろう。その樹の下に嘗《かつ》て私の恋しいお方が立っておいでになった、という追憶であろう。或は相手に送った歌なら、「あなたが嘗てお立ちなされたとうかがいましたその橿の樹の下に居ります」という意になるだろう。この句は厳かな気持を起させるもので、単に句として抽出するなら万葉集中第一流の句の一つと謂っていい。書紀垂仁巻に、天皇以[#二]倭姫命[#一]為[#二]御杖[#一]貢[#二]奉於天照大神[#一]是以倭姫命以[#二]天照大神[#(ヲ)][#一]鎮[#二]坐磯城[#(ノ)]厳橿之本[#一]とあり、古事記雄略巻に、美母呂能《ミモロノ》、伊都加斯賀母登《イツカシガモト》、加斯賀母登《カシガモト》、由由斯伎加母《ユユシキカモ》、加志波良袁登売《カシハラヲトメ》、云々とある如
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