べきである。作は人麿としては初期のものらしいが、既にかくの如く円熟して居る。

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ささなみの志賀《しが》の大曲《おほわだ》よどむとも昔《むかし》の人《ひと》に亦《また》も逢はめやも 〔巻一・三一〕 柿本人麿
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 右と同時に人麿の作ったもので、一首は、近江の湖水の大きく入り込んだ処、即ち大曲《おおわだ》の水が人恋しがって、人懐かしく、淀《よど》んでいるけれども、もはやその大宮人等に逢うことが出来ない、というのである。大津の京に関係あった湖水の一部の、大曲の水が現在、人待ち顔に淀んでいる趣である。然るに、「オホワダ」をば大海《おおわだ》即ち近江の湖水全体と解し、湖の水が勢多《せた》から宇治に流れているのを、それが停滞して流れなくなるとも、というのが、即ち「ヨドムトモ」であると仮定的に解釈する説(燈)があるが、それは通俗|理窟《りくつ》で、人麿の歌にはそういう通俗理窟で解けない歌句が間々あることを知らねばならぬ。ここの「淀むとも」には現在の実感がもっと活《い》きているのである。
 この歌も感慨を籠めたもので、寧ろ主観的な歌である。前の歌の第三句に、「幸くあれど」とあったごとく、この歌の第三句にも、「淀むとも」とある、そこに感慨が籠められ、小休止があるようになるのだが、こういう云い方には、ややともすると一首を弱くする危険が潜むものである。然るに人麿の歌は前の歌もこの歌も、「船待ちかねつ」、「またも逢はめやも」と強く結んで、全体を統一しているのは実に驚くべきで、この力量は人麿の作歌の真率《しんそつ》的な態度に本づくものと自分は解して居る。人麿は初期から斯《こ》ういう優れた歌を作っている。

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いにしへの人《ひと》にわれあれや楽浪《ささなみ》の故《ふる》き京《みやこ》を見《み》れば悲《かな》しき 〔巻一・三二〕 高市古人
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 高市古人《たけちのふるひと》が近江の旧都を感傷して詠《よ》んだ歌である。然るに古人の伝不明で、題詞の下に或書云|高市連黒人《たけちのむらじくろひと》と注せられているので、黒人の作として味う人が多い。「いにしへの人にわれあれや」は、当今の普通人ならば旧都の址《あと》を見てもこんなに悲しまぬであろうが、こんなに悲しいのは、古の世の人だからであろうかと、疑うが如くに感傷したのである。この主観句は、相当によいので棄て難いところがある。なお、巻三(三〇五)に、高市連黒人の、「斯《か》くゆゑに見じといふものを楽浪《ささなみ》の旧き都を見せつつもとな」があって、やはり上の句が主観的である。けれども、此等の主観句は、切実なるが如くにして切実に響かないのは何故であるか。これは人麿ほどの心熱が無いということにもなるのである。

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山川《やまかは》もよりて奉《つか》ふる神《かむ》ながらたぎつ河内《かふち》に船出《ふなで》するかも 〔巻一・三九〕 柿本人麿
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 持統天皇の吉野行幸の時、従駕《じゅうが》した人麿の献《たてまつ》ったものである。持統天皇の吉野行幸は前後三十二回(御在位中三十一回御譲位後一回)であるが、万葉集年表(土屋文明氏)では、五年春夏の交《こう》だろうと云っている。さすれば人麿の想像年齢二十九歳位であろうか。
 一首の意は、山の神(山祇《やまつみ》)も川の神(河伯《かわのかみ》)も、もろ共に寄り来って仕え奉る、現神《あきつがみ》として神そのままに、わが天皇は、この吉野の川の滝《たぎ》の河内《かふち》に、群臣と共に船出したもう、というのである。
「滝《たぎ》つ河内《かふち》」は、今の宮滝《みやたき》附近の吉野川で、水が強く廻流している地勢である。人麿は此歌を作るのに、謹んで緊張しているから、自然歌調も大きく荘厳なものになった。上半は形式的に響くが、人麿自身にとっては本気で全身的であった。そして、「滝つ河内」という現実をも免《のが》していないものである。一首の諧調音を分析すれば不思議にも加行の開口音があったりして、種々勉強になる歌である。先師伊藤左千夫先生は、「神も人も相和して遊ぶ尊き御代の有様である」(万葉集新釈)と評せられたが、まさしく其通りである。第二句、原文「因而奉流」をヨリテ・ツカフルと訓んだが、ヨリテ・マツレルという訓もある。併しマツレルでは調《しらべ》が悪い。結句、原文、「船出為加母」は、フナデ・セスカモと敬語に訓んだのもある。
 補記、近時土屋文明氏は「滝つ河内」はもっと下流の、下市《しもいち》町を中心とした越部、六田あたりだろうと考証した。

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