[#「らし」に白丸傍点]」と切り、第四句で、「衣ほしたり[#「たり」に白丸傍点]」と切って、「らし」と「たり」で伊列の音を繰返し一種の節奏を得ているが、人麿の歌調のように鋭くゆらぐというのではなく、やはり女性にまします御語気と感得することが出来るのである。そして、結句で「天の香具山」と名詞止めにしたのも一首を整正端厳にした。天皇の御代には人麿・黒人をはじめ優れた歌人を出したが、天皇に此御製あるを拝誦すれば、決して偶然でないことが分かる。
 この歌は、第二句ナツキニケラシ(旧訓)、古写本中ナツゾキヌラシ(元暦校本・類聚古集)であったのを、契沖がナツキタルラシと訓んだ。第四句コロモサラセリ(旧訓)、古写本中、コロモホシタリ(古葉略類聚抄《こようりゃくるいじゅうしょう》)、コロモホシタル(神田本)、コロモホステフ(細井本)等の訓があり、また、新古今集や小倉百人一首には、「春過ぎて夏来にけらし[#「けらし」に白丸傍点]白妙の衣ほすてふ[#「すてふ」に白丸傍点]あまの香具山」として載っているが、これだけの僅かな差別で一首全体に大きい差別を来すことを知らねばならぬ。現在鴨公村高殿の土壇に立って香具山の方を見渡すと、この御製の如何に実地的即ち写生的だかということが分かる。真淵の万葉考に、「夏のはじめつ比《ころ》、天皇|埴安《はにやす》の堤の上などに幸《いでま》し給ふ時、かの家らに衣を懸《かけ》ほして有《ある》を見まして、実に夏の来たるらし、衣をほしたりと、見ますまに/\のたまへる御歌也。夏は物打しめれば、万づの物ほすは常の事也。さては余りに事かろしと思ふ後世心より、附そへごと多かれど皆わろし。古への歌は言には風流なるも多かれど、心はただ打見打思ふがまゝにこそよめれ」と云ってあるのは名言だから引用しておく。なお、埴安の池は、現在よりももっと西北で、別所の北に池尻という小字があるがあのあたりだかも知れない。なお、橋本|直香《ただか》(私抄)は、香具山に登り給うての御歌と想像したが、併し御製は前言の如く、宮殿にての御吟詠であろう。土屋文明氏は明日香《あすか》の浄御原《きよみはら》の宮から山の陽《みなみ》の村里を御覧になられての御製と解した。
 参考歌。「ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春たつらしも」(巻十・一八一二)、「いにしへの事は知らぬを我見ても久しくなりぬ天の香具山」(巻七・一〇九六)、「昨日こそ年は極《は》てしか春霞春日の山にはや立ちにけり」(巻十・一八四三)、「筑波根に雪かも降らる否をかも愛《かな》しき児ろが布《にぬ》ほさるかも」(巻十四・三三五一)。僻案抄《へきあんしょう》に、「只白衣を干したるを見そなはし給ひて詠給へる御歌と見るより外有べからず」といったのは素直な解釈であり、燈に、「春はと人のたのめ奉れる事ありしか。又春のうちにと人に御ことよさし給ひし事のありけるが、それが期《とき》を過ぎたりければ、その人をそゝのかし、その期おくれたるを怨《うら》ませ給ふ御心なるべし」と云ったのは、穿《うが》ち過ぎた解釈で甚だ悪いものである。こういう態度で古歌に対するならば、一首といえども正しい鑑賞は出来ない。

           ○

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ささなみの志賀《しが》の辛崎《からさき》幸《さき》くあれど大宮人《おほみやびと》の船《ふね》待《ま》ちかねつ 〔巻一・三〇〕 柿本人麿
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 柿本人麿が、近江の宮(天智天皇大津宮)址《あと》の荒れたのを見て作った長歌の反歌である。大津宮(志賀宮)の址は、現在の大津市南滋賀町あたりだろうという説が有力で、近江の都の範囲は、其処から南へも延び、西は比叡山麓、東は湖畔|迄《まで》至っていたもののようである。此歌は持統三年頃、人麿二十七歳ぐらいの作と想像している。「ささなみ」(楽浪)は近江滋賀郡から高島郡にかけ湖西一帯の地をひろく称した地名であるが、この頃には既に形式化せられている。
 一首は、楽浪《ささなみ》の志賀の辛崎は元の如く何の変《かわり》はないが、大宮所も荒れ果てたし、むかし船遊をした大宮人も居なくなった。それゆえ、志賀の辛崎が、大宮人の船を幾ら待っていても待ち甲斐《がい》が無い、というのである。
「幸《さき》くあれど」は、平安無事で何の変はないけれどということだが、非情の辛崎をば、幾らか人間的に云ったものである。「船待ちかねつ」は、幾ら待っていても駄目だというのだから、これも人間的に云っている。歌調からいえば、第三句は字余りで、結句は四三調に緊《し》まっている。全体が切実沈痛で、一点浮華の気をとどめて居らぬ。現代の吾等は、擬人法らしい表現に、陳腐《ちんぷ》を感じたり、反感を持ったりすることを止めて、一首全体の態度なり気魄《きはく》なりに同化せんことを努む
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