英虞《あご》の浦《うら》に船乗《ふなの》りすらむをとめ等《ら》が珠裳《たまも》の裾《すそ》に潮《しほ》満《み》つらむか 〔巻一・四〇〕 柿本人麿
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持統天皇が伊勢に行幸(六年三月)遊ばされた時、人麿は飛鳥浄御原《あすかのきよみはら》宮(持統八年十二月六日藤原宮に遷居し給う)に留まり、その行幸のさまを思いはかって詠んだ歌である。初句、原文「嗚呼見浦爾」だから、アミノウラニと訓むべきである。併し史実上で、阿胡行宮《あごのかりみや》云々とあるし、志摩に英虞郡《あごのこおり》があり、巻十五(三六一〇)の古歌というのが、「安胡乃宇良《アゴノウラ》」だから、恐らく人麿の原作はアゴノウラで、万葉巻一のアミノウラは異伝の一つであろう。
一首は、天皇に供奉《ぐぶ》して行った多くの若い女官たちが、阿虞の浦で船に乗って遊楽する、その時にあの女官等の裳の裾が海潮に濡《ぬ》れるであろう、というのである。
行幸は、三月六日(陽暦三月三十一日)から三月二十日(陽暦四月十四日)まで続いたのだから、海浜で遊楽するのに適当な季節であり、若く美しい女官等が大和の山地から海浜に来て珍しがって遊ぶさまが目に見えるようである。そういう朗かで美しく楽しい歌である。然《し》かも一首に「らむ」という助動詞を二つも使って、流動的歌調を成就《じょうじゅ》しているあたり、やはり人麿一流と謂《い》わねばならない。「玉裳」は美しい裳ぐらいに取ればよく、一首に親しい感情の出ているのは、女官中に人麿の恋人もいたためだろうと想像する向もある。
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潮騒《しほさゐ》に伊良虞《いらご》の島辺《しまべ》榜《こ》ぐ船《ふね》に妹《いも》乗《の》るらむか荒《あら》き島回《しまみ》を 〔巻一・四二〕 柿本人麿
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前の続きである。「伊良虞《いらご》の島」は、三河|渥美《あつみ》郡の伊良虞崎あたりで、「島」といっても崎でもよいこと、後出の「加古の島」のところにも応用することが出来る。
一首は、潮が満ちて来て鳴りさわぐ頃、伊良虞の島近く榜《こ》ぐ船に、供奉してまいった自分の女も乗ることだろう。あの浪の荒い島のあたりを、というのである。
この歌には、明かに「妹」とあるから、こまやかな情味があって余所余所《よそよそ》しくない。そして、この「妹乗るらむか」という一句が一首を統一してその中心をなしている。船に慣れないことに同情してその難儀をおもいやるに、ただ、「妹乗るらむか」とだけ云っている、そして、結句の、「荒き島回を」に応接せしめている。
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吾背子《わがせこ》はいづく行《ゆ》くらむ奥《おき》つ藻《も》の名張《なばり》の山《やま》を今日《けふ》か越《こ》ゆらむ 〔巻一・四三〕 当麻麿の妻
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当麻真人麿《たぎまのまひとまろ》の妻が夫の旅に出た後詠んだものである。或は伊勢行幸にでも扈従《こじゅう》して行った夫を偲《しの》んだものかも知れない。名張山は伊賀名張郡の山で伊勢へ越ゆる道筋である。「奥つ藻の」は名張へかかる枕詞で、奥つ藻は奥深く隠れている藻だから、カクルと同義の語ナバル(ナマル)に懸けたものである。
一首の意は、夫はいま何処を歩いていられるだろうか。今日ごろは多分名張の山あたりを越えていられるだろうか、というので、一首中に「らむ」が二つ第二句と結句とに置かれて調子を取っている。この「らむ」は、「朝踏ますらむ」あたりよりも稍軽快である。この歌は古来秀歌として鑑賞せられたのは万葉集の歌としては分かり好く口調も好いからであったが、そこに特色もあり、消極的方面もまたそこにあると謂っていいであろうか。併しそれでも古今集以下の歌などと違って、厚みのあるところ、名張山という現実を持って来たところ等に注意すべきである。
この歌は、巻四(五一一)に重出しているし、又集中、「後れゐて吾が恋ひ居れば白雲《しらくも》の棚引く山を今日か越ゆらむ」(巻九・一六八一)、「たまがつま島熊山の夕暮にひとりか君が山路越ゆらむ」(巻十二・三一九三)、「息《いき》の緒《を》に吾が思《も》ふ君は鶏《とり》が鳴く東《あづま》の坂を今日か越ゆらむ」(同・三一九四)等、結句の同じものがあるのは注意すべきである。
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阿騎《あき》の野《ぬ》に宿《やど》る旅人《たびびと》うちなびき寐《い》も寝《ぬ》らめやも古《いにしへ》おもふに 〔巻一・四六〕 柿本人麿
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軽皇子《かるのみこ》が阿騎野(宇陀郡松山町附近の野)に宿られて、御父|日並知皇子《ひなみしのみこ》(草壁皇子)を追憶せられた。その時人麿の作っ
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