ゑましきにとなり」(講義)等である。併し、袖振るとは、「わが振る袖を妹見つらむか」(人麿)というのでも分かるように、ただの客観的な姿ではなく、恋愛心表出のための一つの行為と解すべきである。
 この歌は、額田王が皇太子大海人皇子にむかい、対詠的にいっているので、濃やかな情緒に伴う、甘美な媚態《びたい》をも感じ得るのである。「野守は見ずや」と強く云ったのは、一般的に云って居るようで、寧《むし》ろ皇太子に愬《うった》えているのだと解して好い。そういう強い句であるから、その句を先きに云って、「君が袖振る」の方を後に置いた。併しその倒句は単にそれのみではなく、結句としての声調に、「袖振る」と止めた方が適切であり、また女性の語気としてもその方に直接性があるとおもうほど微妙にあらわれて居るからである。甘美な媚態云々というのには、「紫野ゆき標野ゆき」と対手《あいて》の行動をこまかく云い現して、語を繰返しているところにもあらわれている。一首は平板に直線的でなく、立体的波動的であるがために、重厚な奥深い響を持つようになった。先進の注釈書中、この歌に、大海人皇子に他に恋人があるので嫉《ねた》ましいと解したり(燈・美夫君志)、或は、戯れに諭《さと》すような分子があると説いたのがあるのは(考)、一首の甘美な愬《うった》えに触れたためであろう。
「袖振る」という行為の例は、「石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか」(巻二・一三二)、「凡《おほ》ならばかもかも為《せ》むを恐《かしこ》みと振りたき袖を忍《しぬ》びてあるかも」(巻六・九六五)、「高山の岑《みね》行く鹿《しし》の友を多み袖振らず来つ忘ると念ふな」(巻十一・二四九三)などである。

           ○

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紫草《むらさき》のにほへる妹《いも》を憎《にく》くあらば人嬬《ひとづま》ゆゑにあれ恋《こ》ひめやも 〔巻一・二一〕 天武天皇
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 右(二〇)の額田王の歌に対して皇太子(大海人皇子、天武天皇)の答えられた御歌である。
 一首の意は、紫の色の美しく匂《にお》うように美しい妹《いも》(おまえ)が、若しも憎いのなら、もはや他人の妻であるおまえに、かほどまでに恋する筈《はず》はないではないか。そういうあぶないことをするのも、おまえが可哀いからである、というのである。
 この「人妻ゆゑに」の「ゆゑに」は「人妻だからと云《い》って」というのでなく、「人妻に由《よ》って恋う」と、「恋う」の原因をあらわすのである。「人妻ゆゑにわれ恋ひにけり」、「ものもひ痩《や》せぬ人の子ゆゑに」、「わがゆゑにいたくなわびそ」等、これらの例万葉に甚《はなは》だ多い。恋人を花に譬《たと》えたのは、「つつじ花にほえ少女、桜花さかえをとめ」(巻十三・三三〇九)等がある。
 この御歌の方が、額田王の歌に比して、直接で且つ強い。これはやがて女性と男性との感情表出の差別ということにもなるとおもうが、恋人をば、高貴で鮮麗な紫の色にたぐえたりしながら、然《し》かもこれだけの複雑な御心持を、直接に力づよく表わし得たのは驚くべきである。そしてその根本は心の集注と純粋ということに帰着するであろうか。自分はこれを万葉集中の傑作の一つに評価している。集中、「憎し」という語のあるものは、「憎くもあらめ」の例があり、「憎《にく》くあらなくに」、「憎《にく》からなくに」の例もある。この歌に、「憎」の語と、「恋」の語と二つ入っているのも顧慮してよく、毫も調和を破っていないのは、憎い(嫌い)ということと、恋うということが調和を破っていないがためである。この贈答歌はどういう形式でなされたものか不明であるが、恋愛贈答歌には縦《たと》い切実なものでも、底に甘美なものを蔵している。ゆとりの遊びを蔵しているのは止むことを得ない。なお、巻十二(二九〇九)に、「おほろかに吾し思はば人妻にありちふ妹に恋ひつつあらめや」という歌があって類似の歌として味うことが出来る。

           ○

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河上《かはかみ》の五百箇《ゆつ》磐群《いはむら》に草《くさ》むさず常《つね》にもがもな常処女《とこをとめ》にて 〔巻一・二二〕 吹黄刀自
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 十市皇女《とおちのひめみこ》(御父大海人皇子、御母額田王)が伊勢神宮に参拝せられたとき、皇女に従った吹黄刀自《ふきのとじ》が波多横山《はたよこやま》の巌《いわお》を見て詠んだ歌である。波多《はた》の地は詳《つまびらか》でないが、伊勢|壱志《いちし》郡八太村の辺だろうと云われている。
 一首の意は、この河の辺《ほとり》の多くの巌には少しも草の生えることがなく、綺麗《きれい》で滑《なめら》かである。そのようにわが皇女の君も永久に美しく容色のお変
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