》を相《あひ》見《み》むと念《おも》ひし情《こころ》今《いま》ぞ和《な》ぎぬる 〔巻十一・二五七九〕 作者不詳
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 いそいで行って、一時もはやくお前に逢いたいとおもっていたのだったが、こうしてお前を見るとやっと心が落着いた、というのだろうが、「君」を男とすると、解釈が少し不自然になるから、やはり此歌は、男が女に向って「君」と呼んだことに解する方が好いだろう。私は、「今ぞ和ぎぬる」という句に非常に感動してこの歌を選んだ。このナギヌルの訓は従来からそうであるが、嘉暦《かりゃく》本にはイマゾユキヌルと訓んでいる。「あが念《も》へる情《こころ》和《な》ぐやと、早く来て見むとおもひて」(巻十五・三六二七)、「相見ては須臾《しま》しく恋は和《な》ぎむかとおもへど弥々《いよよ》恋ひまさりけり」(巻四・七五三)、「見る毎に情《こころ》和ぎむと、繁山《しげやま》の谿《たに》べに生《お》ふる、山吹を屋戸《やど》に引植ゑて」(巻十九・四一八五)、「天《あま》ざかる鄙《ひな》とも著《しる》く許多《ここだ》くもしげき恋かも和《な》ぐる日もなく」(巻十七・四〇一九)等の例に見るごとく、加行上二段に活用する動詞である。

           ○

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面形《おもがた》の忘《わす》るとならばあぢ[#「ぢ」に「イづ」の注記]きなく男《をのこ》じものや恋《こ》ひつつ居《を》らむ 〔巻十一・二五八〇〕 作者不詳
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 あの女の顔貌《かおかたち》が忘られてしまうものなら、男子たるおれが、こんなに甲斐《かい》ない恋に苦しんで居ることは無いのだが、どうしてもあの顔を忘れることが出来ぬ、というのである。「男じもの」の「じもの」は「何々の如《ごと》きもの」というので、「鹿《しし》じもの」は鹿の如きもの、でつまりは、鹿たるものとなるから、「男《をのこ》じもの」は、男の如きもの、男らしきもの、男子たるもの、男子として、大丈夫たるもの等の言葉に訳することも出来るのである。結句の「居らむ」は形は未来形だが、疑問があり詠歎に落着く語調である。この歌の真率であわれな点が私の心を牽《ひ》いたので選んで置いた。単に民謡的に安易に歌い去っていない個的なところのある歌である。それから、「面形《おもがた》」云々という用語も注意すべきであるが、これは、「面形《おもがた》の忘れむ時《しだ》は大野《おほぬ》ろに棚引く雲を見つつ偲《しぬ》ばむ」(巻十四・三五二〇)という歌もあり、一しょにして味うことが出来る。

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あぢ[#「ぢ」に「イづ」の注記]き無《な》く何《なに》の枉言《たはこと》いま更《さら》に小童言《わらはごと》する老人《おいびと》にして 〔巻十一・二五八二〕 作者不詳
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 枉言はマガコトと訓《よ》んでいたが、略解で狂言としてタハコトと訓んだ。一首は、何という愚《おろか》な戯痴《たわけ》たことを俺《おれ》は云ったものか、この老人が年甲斐《としがい》もなく、今更小供等のような真似《まね》をして、というので、それでも、あの女が恋しくて堪えられないという意があるのである。これは女に対《むか》って恋情を打明けたのちに、老体を顧《かえり》みた趣の歌だが、初句に、「あぢきなく」とあるから、遂げられない恋の苦痛が一番強く来ていることが分かる。これは老人の恋でまことに珍らしいものである。「あぢきなく」は「あづきなく」ともいい、「なかなかに黙《もだ》もあらましをあぢきなく相見|始《そ》めても吾は恋ふるか」(巻十二・二八九九)の例がある。実に甲斐のない、まことにつまらないという程の語である。「わらは」は童男童女いずれにもいい、「老人《おいびと》も女童児《をみなわらは》も、其《し》が願ふ心|足《だら》ひに」(巻十八・四〇九四)の例がある。
 恋愛の歌は若い男女のあいだの独占で、それゆえ寒山詩にも、老翁娶[#二]少婦[#一]、髪白婦不[#レ]耐、老婆嫁[#二]少夫[#一]、面黄夫不[#レ]愛、老翁娶[#二]老婆[#一]、一一無[#二]棄背[#一]、少婦嫁[#二]少夫[#一]、両両相憐態、とあるのだが、万葉には稀《まれ》にこういう老人の恋の歌もあるのは、人間の実際を虚偽なく詠歎したのが残っているので、賀茂真淵《かものまぶち》が、「古《いにし》への世の歌は人の真心なり」云々《うんぬん》というのは、こういうところにも触れているのである。なお万葉には、竹取《たかとりの》翁と娘子等の問答(巻十六)のほかに、石川女郎《いしかわのいらつめ》の、「古りにし嫗《おむな》にしてや斯くばかり恋にしづまむ手童《たわらは》の如《ごと》」(巻二・一二九)があり、「いそのかみ布留《ふる》の神杉《かむすぎ》神《
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