る》場合の自然であり、娘の方で母のことをいろいろ気を揉《も》むことも背景にあって、なかなかおもしろい歌である。やはりこの巻(二五五七)に、「垂乳根の母に申さば君も我も逢ふとはなしに年ぞ経ぬべき」というのもあるが、これも母に話して承諾を得る趣で、これも娘心であるが、「母に障《さは》らば」という方が直截《ちょくせつ》でいい。
この「障らば」をば、母の機嫌《きげん》を害《そこな》うならばと解する説がある。これは「障《さはり》」の用例に本づく説であるが、「障《さは》りあらめやも」、「障《さは》り多み」、「障《さは》ることなく」等だけに拠《よ》るとそうなるかも知れないが、「石《いそ》の上《かみ》ふるとも雨に関《さは》らめや妹に逢はむと云ひてしものを」(巻四・六六四)。「他言《ひとごと》はまこと煩《こちた》くなりぬともそこに障《さは》らむ吾ならなくに」(巻十二・二八八六)。「あしひきの山野さはらず」(巻十七・三九七三)等は、巻四の例に「関」の字を当てた如く、「それに拘わることなく、関係することなく」の意があるので、「山野さはらず」の如くに、そのために礙《さまた》げらるることなくというのは第二に導かれる意味になるのであるから、この歌はやはり、「母に関《かか》わることなく、拘泥《こうでい》することなく」と解釈していいと思う。また歌もそう解釈する方がおもしろい。
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苅薦《かりごも》の一重《ひとへ》を敷《し》きてさ寐《ぬ》れども君《きみ》とし寝《ぬ》れば寒《さむ》けくもなし 〔巻十一・二五二〇〕 作者不詳
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作者不明。薦蓆《こもむしろ》をただ一枚敷いて寝ても、あなたと御一しょですから、ちっともお寒くはありません、「君とし」とあるから大体女の歌として解していいであろう。第四句原文が、「君共宿者」であるから、キミガムタ。キミトモ。等の訓があるが、「伎美止之不在者《キミトシアラネバ》」(巻十八・四〇七四)などを参考して、平凡にキミトシヌレバと訓むのに従った。これも民謡風に率直に覚官的にいいあらわしている。「蒸被《むしぶすま》なごやが下《した》に臥《ふ》せれども妹とし宿《ね》ねば肌し寒しも」(巻四・五二四)というのは、同じような気持を反対に云ったものだが、この歌の方が、寧《むし》ろ実際的でそこに強みがあるのである。
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振分《ふりわけ》の髪《かみ》を短《みじか》み春草《はるくさ》を髪《かみ》に綰《た》くらむ妹《いも》をしぞおもふ 〔巻十一・二五四〇〕 作者不詳
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振分髪というのは、髪を肩のあたり迄《まで》垂らして切るので、まだ髪を結ぶまでに至らない童女、また童男の髪の風を云う。「綰《た》く」は加行下二段の動詞で、髪を束《たば》ねあげることである。一首の意は、あの児は短い振分髪で、まだ髪を結えないので、春草を足して髪に束ねてでもいるだろうか、可哀《かあ》いいあどけないあの児のことがおもいだされる、というくらいの意とおもう。童女のことを歌っているのが珍しいのであるが、あの時代には随分小さくて男女の関係を結んだこともあったと見做《みな》してこの歌を解釈することも出来る。真間の手児名なども、ようやくおとめになったかならぬころではなかっただろうか。いずれにしても珍しい歌である。第三句|流布本《るふぼん》「青草《ワカクサ》」であったのを古義で「春草」としたが、古鈔本中(温・京)に「春」とあるし、契沖既に注意している。
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念《おも》はぬに到《いた》らば妹《いも》が歓《うれ》しみと笑《ゑ》まむ眉引《まよびき》おもほゆるかも 〔巻十一・二五四六〕 作者不詳
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作者不明。一首の意。突然に女のところに行ったら、嬉《うれ》しいと云ってにこにこする様子が想像せられて云いようなく楽しい、というので、昔も今もかわりない人情の機微が出て居る歌である。ただ現代語と違って古語だから、軽薄に聞こえずに濃厚に聞こえるのである。おもいがけず、突然に、というのを「念はぬに」という。「念はぬに時雨の雨は降りたれど」(巻十・二二二七)。「念はぬに妹が笑《ゑま》ひを夢に見て」(巻四・七一八)等の例がある。「歓《うれ》しみと」の「と」の使いざまは、「歓《うれ》しみと紐の緒解きて」(巻九・一七五三)とある如く、「と云って」の意である。にこにこと匂《にお》うような顔容をば、「笑まむ眉引」というのも、実に旨いので、古語の優れている点である。やはり此巻(二五二六)に、「待つらむに到らば妹が歓《うれ》しみと笑《ゑ》まむすがたを行きて早見む」というのがあり、大《おおい》に似ているが、この
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