おろし如何にせばかも吾が恋ひ止まむ」とあるのと類似して居り、この二七三八の方は異伝であろう。

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ぬばたまの黒髪山《くろかみやま》の山菅《やますげ》に小雨《こさめ》零《ふ》りしきしくしく思《おも》ほゆ 〔巻十一・二四五六〕 柿本人麿歌集
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 同上、人麿歌集出。この歌の内容は、ただ、「しくしく思ほゆ」だけで、そのうえは序詞である。ただ黒髪山の山菅《やますげ》に小雨の降るありさまと相通ずる、そういううら悲しいような切《せつ》なおもいを以て序詞としたものであろう。山菅は山に生えるスゲのたぐい、或はヤブラン、リュウノヒゲ一類、どちらでも解釈が出来、古人はそういうものを一つ草とおもっていたものと見えるから、今の本草学の分類などで律しようとすると解釈が出来なくなって来るのである。この歌も取りわけ秀歌という程のものでないが、ただ結句だけで内容とする歌も珍しいので選んで置いた。

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我背子《わがせこ》に吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》れば吾《わ》が屋戸《やど》の草《くさ》さへ思《おも》ひうらがれにけり 〔巻十一・二四六五〕 柿本人麿歌集
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 同上、人麿歌集出。一首の意は、私の夫を待遠しく恋しがって居ると、家の庭の草さえも思い悩んで枯れてしまいました、というので女の歌である。「吾が恋ひ居れば吾が屋戸の」という具合に、「わが」を繰返しているのは、意識的らしく、少しく軽く聞こえるが、「草さへ思ひうらがれにけり」という息の長い、伸々した調《しらべ》によって落着《おちつき》を得ているのは注意すべきである。特にこの下の句は伸びているうちに、悲哀の感動を含めたものだから、上の句の稍《やや》小きざみになったのは自然の調べなのか、よく分らないが、「我が」を三つも繰返したのは感心しない。そこに行くと、「君待つと吾が恋ひ居ればわが屋戸《やど》の簾《すだれ》うごかし秋の風吹く」(巻四・四八八)の方が旨《うま》い。似ているが初句の「君待つと」で緊《しま》っている。結句は、近時橋本氏によって、ウラブレニケリの訓が唱えられた。

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山萵苣《やまちさ》の白露《しらつゆ》おもみうらぶるる心《こころ》を深《ふか》み吾《わ》が恋《こ》ひ止《や》まず 〔巻十一・二四六九〕 柿本人麿歌集
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 同上、人麿歌集出。山萵苣《やまちさ》は食用にする萵苣《ちさ》で、山に生えるのを山萵苣といったものであろう。エゴの木だという説もあるが、白露おくという草に寄せた歌だから、大体食用の萵苣と解釈していいようである。露のために花のしなっているように心の萎《しな》える心持で序詞とした。この歌も取りたてていう程のものでないが、「心を深みわが恋ひ止まず」の句が棄てがたいから選んで置いたし、萵苣は食用菜で、日常生活によって見ているものを持って来たのがおもしろいと思ったのである。

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垂乳根《たらちね》の母《はは》が養《か》ふ蚕《こ》の繭隠《まよごも》りこもれる妹《いも》を見《み》むよしもがも 〔巻十一・二四九五〕 柿本人麿歌集
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 同上、人麿歌集出。第三句迄は序詞で、母の飼っている蚕《かいこ》が繭《まゆ》の中に隠《こも》るように、家に隠って外に出ない恋しい娘を見たいものだ、というので、この繭のことを云うのも日常生活の経験を持って来ている。蚕に寄する恋といっても、題詠ではなく、斯《こ》ういう歌が先ず出来てそれから寄[#レ]物恋と分類したものである。この歌は序詞のおもしろみというよりも、全体が実生活を離れず、特に都会生活でない農民生活を示すところがおもしろいのである。巻十二(二九九一)に、「垂乳根の母が養《か》ふ蚕《こ》の繭隠《まよごも》りいぶせくもあるか妹にあはずて」というのがあり、巻十三(三二五八)の長歌に、「たらちねの母が養ふ蚕の、繭隠り気衝《いきづ》きわたり」というのがあるが、やはり此歌の方が旨い。「いぶせく」では続きが突如としても居り、不自然で妙味がないようである。

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垂乳根《たらちね》の母《はは》に障《さは》らばいたづらに汝《いまし》も吾《われ》も事《こと》成《な》るべしや 〔巻十一・二五一七〕 作者不詳
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 正述[#二]心緒[#一]。作者不明。一首の意は、母に遠慮して気兼してぐずぐずしているなら、お前も私もこの恋を遂げることが出来んではないかというので、男が女を促す趣の歌である。男が気を急いで女に向って斯《か》くまで強いことをいうのも或《あ
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