すこし紅のにほひあるをいへり」といい、精撰本に、「朱引秦《アカヲヒクハダ》トハ、紅顔ニ応ジテ肌モニホフナリ」と云ったのは、契沖の文も覚官的で旨《うま》い。
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恋《こ》ひ死《し》なば恋《こ》ひも死《し》ねとや我妹子《わぎもこ》が吾家《わぎへ》の門《かど》を過《す》ぎて行《ゆ》くらむ 〔巻十一・二四〇一〕 柿本人麿歌集
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同上、人麿歌集出。一首の意は、恋死《こいじに》をするなら、勝手にせよというつもりで、あの恋しい女はおれの家の門を素通りして行くのだろう、というのである。こういうのも恋の一心情で、それを自然に誰の心にも這入《はい》って行けるように歌うのが民謡の一特徴であるが、鋭敏に心の働いたところがあるので、共鳴する可能性も多いのである。「恋ひ死なば恋も死ねとや玉桙《たまぼこ》の道ゆく人にことも告げなく」(巻十一・二三七〇)、「恋ひ死なば恋も死ねとや霍公鳥《ほととぎす》もの念《も》ふ時に来鳴き響《とよ》むる」(巻十五・三七八〇)等のあるのは、やはり模倣だとおもうが、こう比較してみると、人麿歌集のこの歌の方が旨い。
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恋《こ》ふること慰《なぐさ》めかねて出《い》で行《ゆ》けば山《やま》も川《かは》をも知《し》らず来《き》にけり 〔巻十一・二四一四〕 柿本人麿歌集
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同上、人麿歌集出。一首の意は、この恋の切ない思を慰めかね、遣《や》りかねて出でて来たから、山をも川をも夢中で来てしまった、というのである。「いで行けば」といったり、「来にけり」と云ったりして、調和しないようだが、そういう巧緻《こうち》でないようなところがあっても、真率《しんそつ》な心があらわれ、自分の心をかえりみるような態度で、「来にけり」と詠歎したのに棄てがたい響がある。第二句、「こころ遣《や》りかね」とも訓んでいる。これは、「おもふどち許己呂也良武等《ココロヤラムト》」(巻十七・三九九一)等の例に拠《よ》ったものであるが、「恋しげみ奈具左米可禰※[#「低のつくり」、第3水準1−86−47]《ナグサメカネテ》」(巻十五・三六二〇)の例もあるから、いずれとも訓み得るのである。今旧訓に従って置いた。それから、「ゆく」も「くる」も、主客の差で、根本の相違でないことがこの例でも分かるし、前出の、「大和には鳴きてか来らむ呼子鳥」(巻一・七〇)の歌を想起し得る。石上《いそのかみ》卿の、「ここにして家やもいづく白雲の棚引く山を越えて来にけり」(巻三・二八七)の例がある。
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山科《やましな》の木幡《こはた》の山《やま》を馬《うま》はあれど歩《かち》ゆ吾《わ》が来《こ》し汝《な》を念《おも》ひかね 〔巻十一・二四二五〕 柿本人麿歌集
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寄[#レ]物陳[#レ]思という部類の歌に入れてある。人麿歌集出。「山科の木幡の山」は、山城宇治郡、現在宇治村木幡で、桃山御陵の東方になっている。前の歌に、強田《こはだ》とあったのと同じである。一首の意は、山科の木幡の山道をば徒歩でやって来た。おれは馬を持っているが、お前を思う思いに堪えかねて徒歩で来たのであるぞ、というのである。旧訓ヤマシナノ・コハダノヤマニ。考ヤマシナノ・コハダノヤマヲ。つまり、「木幡の山を歩み吾が来し」となるので、なぜ、「馬はあれど」と云ったかというに、馬の用意をする暇もまどろしくて、取るものも取《とり》あえず、というのであろう。本来馬で来れば到着が早いのであるが、それは理論で、まどろしく思う情の方は直接なのである。詩歌では情の直接性を先にするわけになるから、こういう表現となったものである。女にむかっていう語として、親しみがあっていい。
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大船《おほふね》の香取《かとり》の海《うみ》に碇《いかり》おろし如何《いか》なる人《ひと》か物《もの》念《おも》はざらむ 〔巻十一・二四三六〕 柿本人麿歌集
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同上、人麿歌集出。「大船の香取の海に碇おろし」までは、「いかり」から「いかなる」に続けた序詞であるから、一首の内容は、「いかなる人か物念はざらむ」、即ち、おれはこんなに恋に苦しんで居るが、世の中のどんな人でも恋に苦しまないものはあるまい、というだけの歌である。序詞は意味よりも声調にあるので、何か重々しいような声調で心持を暗指するぐらいに解釈すればいい。「香取の海」は、近江にも下総にもあるが、「高島の香取の浦ゆ榜ぎでくる舟」(巻七・一一七二)とある近江湖中の香取の浦としていいだろう。なおこの巻(二七三八)に、「大船のたゆたふ海に碇《いかり》
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