うち分かるが、上の句にもやはりその特色があるので、此上の句のためにも一首が切実になったのである。憶良《おくら》が熊凝《くまこり》を悲しんだものに、「たらちしや母が手離れ」(巻五・八八六)といったのは、此歌を学んだものであろう。なお、「黒髪に白髪《しろかみ》まじり老ゆるまで斯《かか》る恋にはいまだ逢はなくに」(巻四・五六三)という類想の歌もある。第二句、「母之手放」は、ハハノテソキテ、ハハガテカレテ等の訓もあるが、今|契沖《けいちゅう》訓に従った。

           ○

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人《ひと》の寐《ね》る味宿《うまい》は寐《ね》ずて愛《は》しきやし君《きみ》が目《め》すらを欲《ほ》りて歎《なげ》くも 〔巻十一・二三六九〕 柿本人麿歌集
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 同上、人暦歌集出。一首の意は、このごろはいろいろと思い乱れて、世の人のするように安眠が出来ず、恋しいあなたの眼をばなお見たいと思って歎いて居ります、というので、これも女の歌の趣である。「目すら」は「目でもなお」の意で、目を強めている。今の口語になれば、「目でさえも」ぐらいに訳してもいい。「言問《ことと》はぬ木すら妹《いも》と背《せ》ありとふをただ独《ひと》り子《ご》にあるが苦しさ」(巻六・一〇〇七)がある。一首は、取りたててそう優れているという程ではないが、感情がとおって居り、「目すらを」と云って、「目」に集注したいい方に注意したのであった。こういういい方は、憶良の、「たらちしの母が目見ずて」(巻五・八八七)はじめ、他にも例があり、なお、「人の寝る味眠《うまい》は寝ずて」(巻十三・三二七四)等の用例を参考とすることが出来る。

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朝影《あさかげ》に吾《わ》が身《み》はなりぬ玉《たま》耀《かぎ》るほのかに見《み》えて去《い》にし子《こ》故《ゆゑ》に 〔巻十一・二三九四〕 柿本人麿歌集
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 同上、人麿歌集出。「朝影」というのは、朝はやく、日出後間もない日の光にうつる影が、細長くて恰《あたか》も恋に痩せた者のようだから、そのまま取って、「朝影になる」という云い方をしたのである。その頃の者は朝早く女の許《もと》から帰るので、こういう実際を幾たびも経験してこういう語を造るようになったのは興味ふかいことである。「玉かぎる」は玉の光のほのかな状態によって、「ほのか」にかかる枕詞とした。一首は、これまでまだ沁々《しみじみ》と逢ったこともない女に偶然逢って、その後逢わない女に対する恋の切ないことを歌ったものである。「玉かぎるほのかにだにも見えぬおもへば」(巻二・二一〇)、「玉かぎるほのかに見えて別れなば」(巻八・一五二六)等の例がある。この歌は男の心持になって歌っている。

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行《ゆ》けど行《ゆ》けど逢《あ》はぬ妹《いも》ゆゑひさかたの天《あめ》の露霜《つゆじも》に濡《ぬ》れにけるかも 〔巻十一・二三九五〕 柿本人麿歌集
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 同上、人麿歌集出。行きつつ幾ら行っても逢う当《あて》のない恋しい女のために、こうして天の露霜に濡れた、というのである。苦しい調子でぽつりぽつりと切れるのでなく、連続調子でのびのびと云いあらわしている。それは謂《いわ》ゆる人麿調ともいい得るが、それよりも寧《むし》ろ、この歌は民謡的の歌だからと解釈することも出来るのである。併し、この種類の歌にあっては目立つものだから、その一代表のつもりで選んで置いた。「ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露《やましたつゆ》に沾《ぬ》れにけるかも」(巻七・一二四一)などと較べると、やはり此歌の方が旨い。

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朱《あか》らひく膚《はだ》に触《ふ》れずて寝《ね》たれども心《こころ》を異《け》しく我《わ》が念《も》はなくに 〔巻十一・二三九九〕 柿本人麿歌集
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 同上、人麿歌集出。一首の意は、今夜は美しいお前の膚《はだ》にも触れずに独寝《ひとりね》したが、それでも決して心がわりをするようなことはないのだ、今夜は故障があってついお前の処に行かれず独りで寝てしまったが、私の心に別にかわりがない、というのであろう。「心を異しく」は、心がわりするというほどの意で、集中、「逢はねども異《け》しき心をわが思はなくに」(巻十四・三四八二)、「然れども異《け》しき心をあがおもはなくに」(巻十五・三五八八)等の例がある。女の美しい膚のことをいい、覚官的に身体的に云っているのが、ただの平凡な民謡にしてしまわなかった原因であろう。アカラヒク・ハダに就き、代匠記初稿本に、「それは紅顔のにほひをいひ、今は肌《はだへ》の雪のごとくなるに、
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