しているのであるが、そこに一人の美しい男を点出して、その男を中心として大勢の女の体も心も運動|循環《じゅんかん》する趣である。一首の形式は、旋頭歌だから、「手玉鳴らすも」で休止となる。短歌なら第三句で序詞になるところであろうが、旋頭歌では第四句から新《あらた》に起す特色がある。民謡風な労働につれてうたう労働歌というようなもので、重々しい調べのうちに甘い潤《うるお》いもあり珍しいものだが、明かに人麿作と記されている歌に旋頭歌は一つもないのに、人麿歌集には纏《まと》まって旋頭歌が載《の》って居り、相当におもしろいものばかりであるのを見れば、或は人麿自身が何かの機縁にこういう旋頭歌を作り試みたものであったのかも知れない。
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長谷《はつせ》の五百槻《ゆつき》が下《もと》に吾《わ》が隠《かく》せる妻《つま》茜《あかね》さし照《て》れる月夜《つくよ》に人《ひと》見《み》てむかも 〔巻十一・二三五三〕 柿本人麿歌集
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旋頭歌。人麿歌集出。長谷《はつせ》は今の磯城郡|初瀬《はせ》町を中心とする地、泊瀬《はつせ》。五百槻《ゆつき》は五百槻《いおつき》のことで、沢山の枝ある槻《けやき》のことである。そこで、一首の意は、長谷《はつせ》(泊瀬)の、槻の木の茂った下に隠して置いた妻。月の光のあかるい晩に誰かほかの男に見つかったかも知れんというので、上と下と意味が関聯している。併し旋頭歌だから、下から読んでも意味が通じるのである。この歌も民謡的だが、素朴《そぼく》でいかにも当時の風俗が分かっておもしろい。旋頭歌の調子は短歌の調子と違ってもっと大きく流動的にすることが出来る。内容もまた複雑にすることが出来るが、それをするといけない事を意識して、却《かえ》って単純にするために繰返しを用いている。
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愛《うつく》しと吾《わ》が念《も》ふ妹《いも》は早《はや》も死《し》ねやも生《い》けりとも吾《われ》に依《よ》るべしと人《ひと》の言《い》はなくに 〔巻十一・二三五五〕 柿本人麿歌集
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旋頭歌。人麿歌集出。一首の意。可哀《かあい》くおもう自分のあの女は、いっそのこと死んでしまわないか、死ぬ方がいい。縦《たと》い生きていようとも、自分に靡《なび》き寄る見込が無いから、というので、これも旋頭歌だからどちらから読んでもいい。強く愛している女を独占しようとする気持の歌で、今読んでも相当におもしろいものである。「うつくし」は愛することで、「妻子《めこ》みればめぐしうつくし」(巻五・八〇〇)の例がある。「死ねやも」は、「雷神《なるかみ》の少し動《とよ》みてさしくもり雨も降れやも」(巻十一・二五一三)と同じである。併しこの訓には異説もある。この愛するあまり、「死んでしまえ」と思う感情の歌は後世のものにもあれば、俗謡にもいろいろな言い方になってひろがって居る。
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朝戸出《あさとで》の君《きみ》が足結《あゆひ》を潤《ぬ》らす露原《つゆはら》早《はや》く起《お》き出《い》でつつ吾《われ》も裳裾《もすそ》潤《ぬ》らさな 〔巻十一・二三五七〕 柿本人麿歌集
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同前。朝早くお帰りになるあなたの足結《あゆい》を潤《ぬ》らす露原よ。私も早く起きてその露原で御一しょに裳《も》の裾《すそ》を潤《ぬ》らしましょう、というのである。別《わかれ》を惜しむ気持でもあり、愛着する気持でもあって、女の心の濃《こま》やかにまつわるいいところが出て居る。「吾妹子が赤裳《あかも》の裾の染《し》め湿《ひ》ぢむ今日の小雨《こさめ》に吾さへ沾《ぬ》れな」(巻七・一〇九〇)は男の歌だが同じような内容である。
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垂乳根《たらちね》の母《はは》が手放《てはな》れ斯《か》くばかり術《すべ》なき事《こと》はいまだ為《せ》なくに 〔巻十一・二三六八〕 柿本人麿歌集
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人麿歌集出。正述心緒《ただにおもいをのぶ》という歌群の中の一つである。一首の意は、物ごころがつき、年ごろになって、母の哺育《ほいく》の手から放れて以来、こんなに切ないことをしたことはない、というので、恋の遣瀬無《やるせな》いことを歌ったものである。これは、男の歌か女の歌か字面だけでは分からぬが、女の歌とする方が感に乗ってくるようである。術《すべ》なき事というのは、どうしていいか為方《しかた》の分からぬ気持で、「術《すべ》なきものは」、「術《すべ》の知らなく」、「術《すべ》なきまでに」等の例があり、共に心のせっぱつまった場合を云っている。下の句の切実なのは読んでいる
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