浅茅が色づくを見ると、もう浪柴の野の黄葉が散るだろうと推量するので、こういう心理の歌が集中なかなか多いが、浪柴の野は黄葉の美しいので名高かったものの如く、また人の遊楽するところでもあったのであろう。そこでこの聯想も空漠《くうばく》でないのだが、私は、「浪柴の野のもみぢ散るらし」という歌調に感心したのであった。そして、「もみぢ散るらし」という結句の歌は幾つかあるような気がしていたが、実際当って見ると、この歌一首だけのようである。

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さを鹿《しか》の妻《つま》喚《よ》ぶ山《やま》の岳辺《をかべ》なる早田《わさだ》は苅《か》らじ霜《しも》は零《ふ》るとも 〔巻十・二二二〇〕 作者不詳
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 早稲田《わさだ》だからもう稔《みの》っているのだが、牡鹿《おじか》が妻喚ぶのをあわれに思って、それを驚かすに忍びないという歌である。それをば、「霜は降るとも」と念を押して、あわれに思うとか、同情してとかいう、主観語の無いのをも注意していい。岡辺という語は、「竜田路《たつたぢ》の岳辺《をかべ》の道に」(巻六・九七一)、「岡辺なる藤浪見には」(巻十・一九九一)等の例にある。こういう人間的とも謂うべき歌は万葉には多い。人間的というのは、有情非情に及ぼす同感が人間的にあらわれるという意味である。

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思《おも》はぬに時雨《しぐれ》の雨《あめ》は零《ふ》りたれど天雲《あまぐも》霽《は》れて月夜《つくよ》さやけし 〔巻十・二二二七〕 作者不詳
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 思いがけず時雨が降ったけれど、いつのまにか天雲が無くなって、月明となったというだけのものであるが、言葉がいかにも精煉《せいれん》せられているようにおもう。それも専門家的の苦心|惨憺《さんたん》というのでなくて、尋常《じんじょう》の言葉で無理なくすらすらと云っていて、これだけ充実したものになるということは時代の賜《たまもの》といわなければならない。

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さを鹿《しか》の入野《いりぬ》のすすき初尾花《はつをばな》いづれの時《とき》か妹《いも》が手《て》まかむ 〔巻十・二二七七〕 作者不詳
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 この歌は、「いづれの時か妹が手まかむ」だけが意味内容で、何時になったら、恋しいあの児の手を纏《ま》いて一しょに寝ることが出来るだろうか、という感慨を漏《も》らしたものだが、上は序詞で、鹿の入って行く入野、入野は地名で山城|乙訓《おとくに》郡大原野村上羽に入野神社がある。その入野の薄《すすき》と初尾花《はつおばな》と、いずれであろうかと云って、いずれの時かと続けたので、随分|煩《うるさ》いほどな技巧を凝《こ》らしている。こういう凝った技巧は今となっては余り感心しないものだが、当時の人は骨折ったし、読む方でも満足した。併しこの歌で私の心を引いたのは、そういう序詞でなく、「いづれの時か妹が手纏かむ」の句にあったのである。聖徳太子の歌に、「家にあらば妹が手|纏《ま》かむ草枕旅に臥《こや》せるこの旅人《たびと》あはれ」(巻三・四一五)があった。

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あしひきの山《やま》かも高《たか》き巻向《まきむく》の岸《きし》の子松《こまつ》にみ雪《ゆき》降《ふ》り来《く》る 〔巻十・二三一三〕 柿本人麿歌集
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 巻向《まきむく》は高い山だろう。山の麓《ふもと》の崖《がけ》に生えている小松にまで雪が降って来る、というので、巻向は成程《なるほど》高い山だと感ずる気持がある。「岸《きし》」は前にもあったが、川岸などの岸と同じく、山と平地との境あたりで、なだれになっているのを云うのである。「山かも高き」というような云い方は既に幾度も出て来て、常套《じょうとう》手段の如き感があるが、当時の人々は、いつもすうっとそういう云い方に運ばれて行ったものだろうから、吾々もそのつもりで味う方がいいだろう。「岸の小松にみ雪降り来る」の句を私は好いているが、小松は老松ではないけれども相当に高くとも小松といったこと、次の歌がそれを証している。

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巻向《まきむく》の檜原《ひはら》もいまだ雲《くも》ゐねば子松《こまつ》が末《うれ》ゆ沫雪《あわゆき》流る 〔巻十・二三一四〕 柿本人麿歌集
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 巻向の檜林《ひのきばやし》は既に出た泊瀬《はつせ》の檜林のように、広大で且つ有名であった。その檜原に未だ雨雲が掛かっていないに、近くの松の梢《こずえ》にもう雪が降ってくる、という歌で、「うれゆ」の「ゆ」は、「ながる」という流動の動詞
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