ろしいものだが、それでも妻恋しさにあんなに鳴いているという、哀憐のこころで詠んだもので、西洋的にいうと、恋の盲目とでもいうところであろうか。そのあわれが声調のうえに出ている点がよく、第三句で、「多かれど」と感慨を籠《こ》めている。結句の、「鳴くも」の如きは万葉に甚だ多い例だが、古今集以後、この「も」を段々嫌って少くなったが、こう簡潔につめていうから、感傷の厭味《いやみ》に陥《おちい》らぬとも謂《い》うことが出来る。この歌の近くに、「山辺には猟夫《さつを》のねらひ恐《かしこ》けど牡鹿《をじか》鳴くなり妻の眼《め》を欲《ほ》り」(巻十・二一四九)というのがあるが、この方は常識的に露骨で、まずいものである。
○
[#ここから5字下げ]
秋風《あきかぜ》の寒《さむ》く吹《ふ》くなべ吾《わ》が屋前《やど》の浅茅《あさぢ》がもとに蟋蟀《こほろぎ》鳴《な》くも 〔巻十・二一五八〕 作者不詳
[#ここで字下げ終わり]
「吹くなべ」は、吹くに連れてという意味なること、既に云った。この歌は既《すで》に選出した、「夕月夜《ゆふづくよ》心もしぬに白露のおくこの庭に蟋蟀《こほろぎ》鳴くも」(巻八・一五五二)に似ているが、「浅茅がもとに」というのが実質的でいいから取って置いた。結句の「も」は「さを鹿鳴くも」の「も」に等しい。万葉にはこの種類の歌がなかなか多いが皆相当なものだというのは、実質的で誤魔化《ごまか》さぬのと、奥に恋愛の心を潜《ひそ》めているからであるだろう。
○
[#ここから5字下げ]
秋萩《あきはぎ》の枝《えだ》もとををに露霜《つゆじも》置《お》き寒《さむ》くも時《とき》はなりにけるかも 〔巻十・二一七〇〕 作者不詳
[#ここで字下げ終わり]
初冬の寒露のことをツユジモと云った。宣長は玉勝間《たまかつま》で単にツユのことだと考証しているが、必ずしもそう一徹に極《き》めずに味うことの出来る語である。萩の枝が撓《しな》うばかりに露の置いた趣《おもむき》で、そう具体的に眼前のことを云って置いて、そして、「寒くも時はなりにけるかも」と主観を云っているが、感の深い云い方であるのは、「も」、「は」などの助詞を持っているからである。
○
[#ここから5字下げ]
九月《ながつき》の時雨《しぐれ》の雨《あめ》に沾《ぬ》れとほり春日《かすが》の山《やま》は色《いろ》づきにけり 〔巻十・二一八〇〕 作者不詳
[#ここで字下げ終わり]
この歌も伸々《のびのび》として、息をふかめて歌いあげて居る。「時雨のあめに沾《ぬ》れ通り」の句がこの歌を平板化から救って居るし、全体の具合から作者はこう感じてこう云って居るのである。「君が家の黄葉《もみぢ》の早く落《ち》りにしは時雨の雨に沾れにけらしも」(巻十・二二一七)という歌があるが平板でこの歌のように直接的なずばりとしたところがない。また「霍公鳥《ほととぎす》しぬぬに沾《ぬ》れて」(同・一九七七)等の例もあり人間以外の沾《ぬ》れた用例の一つである。結句の「色づきにけり」というのは集中になかなか例も多く、「時雨の雨|間《ま》なくし零《ふ》れば真木《まき》の葉もあらそひかねて色づきにけり」(同・二一九六)もその一例である。
○
[#ここから5字下げ]
大坂《おほさか》を吾《わ》が越《こ》え来《く》れば二上《ふたがみ》にもみぢ葉《ば》流る時雨《しぐれ》零《ふ》りつつ 〔巻十・二一八五〕 作者不詳
[#ここで字下げ終わり]
大坂は大和|北葛城《きたかつらぎ》郡下田村で、大和から河内《かわち》へ越える坂になっている。二上山が南にあるから、この坂を越えてゆくと、二上山辺の黄葉が時雨に散っている光景が見えたのである。「もみぢ葉ながる」の「ながる」は水の流ると同じ語原で、流動することだから、水のほかに、「沫雪ながる」というように雪の降るのにも使っている。併し、水の流るるように、幾らか横ざまに斜に降る意があるのであろう。「天の時雨の流らふ見れば」(巻一・八二)、「ながらふるつま吹く風の」(同・五九)を見ても、雨・風にナガルの語を使っていることが分かる。「二上に」と云って、「二上山に」と云わぬのもこの歌の一特色をなしている。
○
[#ここから5字下げ]
吾《わ》が門《かど》の浅茅《あさぢ》色《いろ》づく吉隠《よなばり》の浪柴《なみしば》の野《ぬ》のもみぢ散《ち》るらし 〔巻十・二一九〇〕 作者不詳
[#ここで字下げ終わり]
「吉隠《よなばり》の浪柴《なみしば》の野《ぬ》」は、大和|磯城《しき》郡、初瀬《はせ》町の東方一里にあり、持統天皇もこの浪芝野《なみしばぬ》のあたりに行幸あらせられたことがある。自分の家の門前の
前へ
次へ
全133ページ中88ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング