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卯《う》の花《はな》の咲《さ》き散《ち》る岳《をか》ゆ霍公鳥《ほととぎす》鳴《な》きてさ渡《わた》る君《きみ》は聞《き》きつや 〔巻十・一九七六〕 作者不詳
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問答歌で、この歌は問で、答歌は「聞きつやと君が問はせる霍公鳥《ほととぎす》しぬぬに沾《ぬ》れて此《こ》ゆ鳴きわたる」(巻十・一九七七)というのであるが、問の方がやはり旨《うま》く、答の方は「鳴きわたる」などを繰返しているが、余程劣るようである。問答歌で、相手があるのだから、「君は聞きつや」で好い筈《はず》だが、こう単純にはなかなか行かぬものである。また、「卯《う》の花の咲き散る岳《をか》ゆ」と云って印象を鮮明にしているのも、技巧がなかなか旨《うま》いのである。「岳ゆ」の「ゆ」は、「より」の意で、「鳴きてさ渡る」という運動してゆく語に続いている。「咲き散る」という云いあらわし方も、時間を含めたもので、咲くのもあり散るのもあるからであるが、簡潔で旨い。「梅の花咲き散る苑《その》にわれ行かむ」(同・一九〇〇)、「秋萩の咲き散る野べの夕露に」(同・二二五二)等の例がある。普通は、「梅の花わぎへの苑に咲きて散る見ゆ」(巻五・八四一)という具合に、「て」の入っているのが多い。
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真葛原《まくずはら》なびく秋風《あきかぜ》吹くごとに阿太《あた》の大野《おほぬ》の萩《はぎ》が花《はな》散《ち》る 〔巻十・二〇九六〕 作者不詳
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「阿太の野」は、今の吉野、下市町の西に大阿太村がある。その附近一帯の原野であっただろう。葛《くず》の生繁《おいしげ》っているのを靡《なび》かす秋風が吹く度毎に、阿太の野の萩が散るというのだが、二つとも初秋のものだし、一方は広葉の翻《ひるが》えるもの、一方はこまかい紅い花というので、作者の頭には両方とも感じが乗っていたものである。それを、「吹く毎に」で融合させているので、穉拙《ちせつ》なところに、却って古調の面目があらわれて居る。特に、「阿太の大野の萩が花散る」の、諧調音はいうに云われぬものである。
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秋風《あきかぜ》に大和《やまと》へ越《こ》ゆる雁《かり》がねはいや遠《とほ》ざかる雲《くも》がくりつつ 〔巻十・二一二八〕 作者不詳
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「大和へ越ゆる」であるから、大和に接した国、山城とか、紀伊とか、或は旅中にあって、遠く大和の方へ行く雁を見つつ詠んだものであろう。空遠く段々見えなくなる光景で、家郷をおもう情がこもっているのである。初句の、「秋風に」という云い方は、簡潔で特色のあるものだが、後世こういう云い方が繰返されたので陳腐《ちんぷ》になった。やはりこの巻(二一三六)に、「秋風に山飛び越ゆる雁がねの声遠ざかる雲隠るらし」というのがあるが、この方は声を聞いて、「雲がくるらし」と推量しているので、伝誦のあいだに変化して通俗的に分かりよくなったものであろう。即ち二一三六の方が劣るのである。
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朝《あさ》にゆく雁《かり》の鳴《な》く音《ね》は吾《わ》が如《ごと》くもの念《おも》へかも声《こゑ》の悲《かな》しき 〔巻十・二一三七〕 作者不詳
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作者不明。初句、旧訓ツトニユク、古鈔本中、ケサ又はアサと訓んだのがある。いま朝早く、飛んで行く雁の鳴く声は、何となく物悲しい。彼等もまた私のように物思《ものおもい》しているからだろう、というのである。どういう物思かというに、妻恋《つまこい》をして、妻を慕いつつ飛んで行くという気持で、自分の心持を雁に引移して感じて居るのである。この歌の、「朝に」は時間をあらわすので、「朝《あさ》に日《け》に出で見る毎に」(巻八・一五〇七)、「朝な夕なに潜《かづ》くちふ」(巻十一・二七九八)等の「に」と同じい。「物念へかも」は疑問の「かも」である。そう大した歌でないようでも、惻々《そくそく》とした哀韻があって棄てがたい。「鳴く音は」、「声の悲しき」で重複しているようだが、前は稍《やや》一般的、後は実質的で、他にも例がある。旅人《たびと》の歌に、「湯の原に鳴く葦鶴《あしたづ》はわが如く妹《いも》に恋ふれや時分かず鳴く」(巻六・九六一)というのがある。
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山《やま》の辺《べ》にい行《ゆ》く猟夫《さつを》は多《おほ》かれど山《やま》にも野《ぬ》にもさを鹿《しか》鳴《な》くも 〔巻十・二一四七〕 作者不詳
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作者不明。野にも山にもしきりに牡鹿《おじか》が鳴いている。山のべに行く猟師は随分多いのだが、というので、猟師は恐
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