ただその儘に云いあらわし得たのである。併《しか》し、歌調は天平に入ってからの他の歌とも共通し、概して分かりよくなっている。
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潮気《しほけ》たつ荒磯《ありそ》にはあれど行《ゆ》く水《みづ》の過《す》ぎにし妹《いも》が形見《かたみ》とぞ来《こ》し 〔巻九・一七九七〕 柿本人麿歌集
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「紀伊国にて作れる歌四首」という、人麿歌集出の歌があるが、その中の一首である。「行く水の」は、「過ぎ」に続く枕詞。「過ぐ」は死ぬる事である。一首の意は、潮煙の立つ荒寥《こうりょう》たるこの磯に、亡くなった妻の形見と思って来た、というのだが、句々緊張して然かも情景ともに哀感の切なるものがある。この歌は、巻一(四七)の人麿作、「真草苅る荒野にはあれど黄葉《もみぢば》の過ぎにし君が形見《かたみ》とぞ来し」というのと類似しているから、その手法傾向の類似によって、此歌も亦人麿作だろうと想像することが出来るであろう。巻二(一六二)に、「塩気《しほけ》のみ香《かを》れる国に」の例がある。
他の三首は、「黄葉《もみぢば》の過ぎにし子等と携《たづさ》はり遊びし磯を見れば悲しも」(巻九・一七九六)、「古に妹と吾が見しぬばたまの黒牛潟《くろうしがた》を見ればさぶしも」(同・一七九八)、「玉津島《たまつしま》磯の浦回《うらみ》の真砂《まさご》にも染《にほ》ひて行かな妹が触りけむ」(同・一七九九)というので、いずれも哀深いものである。
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巻第十
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ひさかたの天《あめ》の香具山《かぐやま》このゆふべ霞《かすみ》たなびく春《はる》立《た》つらしも 〔巻十・一八一二〕 柿本人麿歌集
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春雑歌、人麿歌集所出である。この歌は、香具山を遠望したような趣である。少くも歌調からいえば遠望であるが、香具山は低い山だし、実際は割合に近いところ、藤原京あたりから眺めたのであったかも知れない。併し一首全体は伸々としてもっと遠い感じだから、現代の人はそういう具合にして味ってかまわぬ。それから、「この夕べ」とことわっているから、はじめて霞がかかった、はじめて霞が注意せられた趣である。春立つというのは暦の上の立春というのよりも、春が来るというように解していいだろう。
この歌は或は人麿自身の作かも知れない。人麿の作とすれば少し楽に作っているようだが、極めて自然で、佶屈《きっくつ》でなく、人心を引入れるところがあるので、有名にもなり、後世の歌の本歌ともなった。併しこの歌は未だ実質的で写生の歌だが、万葉集で既にこの歌を模倣したらしい形跡の歌も見つかるのである。
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子等《こら》が名《な》に懸《か》けのよろしき朝妻《あさづま》の片山《かたやま》ぎしに霞《かすみ》たなびく 〔巻十・一八一八〕 柿本人麿歌集
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人麿歌集出。朝妻山は、大和南葛城郡葛城村大字朝妻にある山で、金剛山の手前の低い山である。「片山ぎし」は、その朝妻山の麓《ふもと》で、一方は平地に接しているところである。「子等が名に懸けのよろしき」までは序詞の形式だが、朝妻という山の名は、いかにも好い、なつかしい名の山だというので、この序詞は単に口調の上ばかりのものではないだろう。この歌も一気に詠んでいるようで、ゆらぎのあるのは或は人麿的だと謂《い》っていいだろう。気持のよい、人をして苦を聯想せしめない種類のもので、やはり万葉集の歌の一特質をなしているものである。
この歌と一しょに、「巻向の檜原《ひはら》に立てる春霞おほにし思はばなづみ来めやも」(巻十・一八一三)というのがある。これは、上半を序詞とした恋愛の歌だが、やはり巻向の檜原を常に見ている人の趣向で、ただ口の先の技巧ではないようである。それが、「おほ」という、一方は霞がほんのりとかかっていること、一方はおろそかに思うということの両方に掛けたので、此歌も歌調がいかにも好く棄てがたいのであるから、此処《ここ》に置いて味《あじわ》うことにした。
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春霞《はるがすみ》ながるるなべに青柳《あをやぎ》の枝《えだ》くひもちて鶯《うぐひす》鳴《な》くも 〔巻十・一八二一〕 作者不詳
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春雑歌、作者不詳。春霞が棚引きわたるにつれて、鶯が青柳の枝をくわえながら鳴いているというので、春の霞と、萌《も》えそめる青柳と、鶯の声とであるが、鶯が青柳をくわえるように感じて、その儘こうあらわしたものであろうが、まことに好い感じで、細かい詮議《せんぎ》の立入る必要の無いほどな歌である。併し、少し詮議するなら、はやく
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