は、「滝の上の三船《みふね》の山ゆ秋津《あきつ》べに来鳴きわたるは誰《たれ》喚子鳥《よぶこどり》」(巻九・一七一三)というのだが、これも相当な作で、恐らく藤原宮時代のものであろうか。真淵などもこの二首を人麿作ではなかろうかとさえ云っているほどである。

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楽浪《ささなみ》の比良山風《ひらやまかぜ》の海《うみ》吹《ふ》けば釣《つり》する海人《あま》の袂《そで》かへる見ゆ 〔巻九・一七一五〕 柿本人麿歌集
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 槐本歌一首とあるもので、槐本《えにすのもと》は柿本の誤写で人麿の作だろうという説がある。一首の意は、近江《おおみ》の楽浪《ささなみ》の比良《ひら》山を吹きおろして来る風が、湖水のうえに至ると、釣している漁夫の袖の翻るのが見える、という極く単純な内容であるが、張りある清潔音の連続で、ゆらぎの大きい点も人麿調を聯想せしめるし、人麿歌集出の歌だから、先ず人麿作と云っていいものであろう。この歌の上の句ほどの程度の、諧調音でも吾々が作るとなれば、なかなか容易のわざではない。

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泊瀬河《はつせがは》夕《ゆふ》渡《わた》り来《き》て我妹子《わぎもこ》が家《いへ》の門《かなど》に近づきにけり 〔巻九・一七七五〕 柿本人麿歌集
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 舎人皇子《とねりのみこ》に献った歌二首中の一つで、人麿歌集に出でたものである。「門」をカナドと訓んだのは、「金門《かなと》にし人の来立てば」(巻九・一七三九)等の例に拠《よ》ったので、「金門《かなと》」で単に「門」という意味に使っている。一首の意味は、恋歌で、恋しい女の家に近づいた趣だが、快い調子を持って居り、伸々《のびのび》と、無理なく情感を湛えている点で、選ぶとせば選ばれる歌である。ただ舎人皇子に献った歌だというので、何か寓意を考え、「此歌モ亦下意アル歟。君ガ恩恵ヲ近ク蒙ルベキ事ハ、譬《たと》ヘバ人ノ夕去バ必ラズ逢ハムト契《ちぎ》リタラムニ、泊瀬川ノ早キ瀬ヲカラウジテ渡リ来テ其家近ク成タルガ如シトヨメル歟」(代匠記)等と詮索しがちであるが、これは何かの機に作ったもので、自分でも稍出来の好い歌だというので、皇子に献ったものででもあろうか。さすれば、普通の恋歌として味っていいわけである。泊瀬川《はつせがわ》は長谷の谿《たに》を流れ、遂に佐保川に合する川である。

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旅人《たびびと》の宿《やど》りせむ野《ぬ》に霜《しも》降《ふ》らば吾《わ》が子《こ》羽《は》ぐくめ天《あめ》の鶴群《たづむら》 〔巻九・一七九一〕 遣唐使随員の母
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 天平五年夏四月、遣唐使(多治比真人広成《たじひのまひとひろなり》)の船が難波を出帆した時、随行員の一人の母親が詠んだ歌である。長歌は、「秋萩を妻|問《ど》ふ鹿《か》こそ、一子《ひとりご》に子|持《も》たりといへ、鹿児《かこ》じもの吾が独子《ひとりご》の、草枕旅にし行けば、竹珠《たかだま》を繁《しじ》に貫《ぬ》き垂り、斎戸《いはひべ》に木綿《ゆふ》取《と》り垂《し》でて、斎《いは》ひつつ吾が思ふ吾子《あこ》、真幸《まさき》くありこそ」(巻九・一七九〇)というのである。
 この短歌の意は、私の一人子《ひとりご》が、遠く唐に行って宿るだろう、その野原に霜が降ったら、天の群鶴よ、翼を以て蔽《おお》うて守りくれよ、というのである。この歌の「はぐくむ」は翼で蔽うて愛撫する意だが、転じて養育することとなった。史記周本紀に、「飛鳥其翼を以て之を覆薦《ふせん》す」の例がある。「武庫の浦の入江の渚鳥《すどり》羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし」(巻十五・三五七八)、「大船に妹乗るものにあらませば羽ぐくみもちて行かましものを」(同・三五七九)があり、新羅《しらぎ》に行く使者等の歌だから同じような心持があらわれている。なお、「天《あま》飛ぶや雁のつばさの覆羽《おほひば》の何処《いづく》漏りてか霜の零《ふ》りけむ」(巻十・二二三八)の例がある。
 母親がひとり子の遠い旅を思う心情は一とおりでないのだが、天の群鶴にその保護を頼むというのは、今ならば文学的の技巧を直ぐ聯想《れんそう》するし、実際また詩的に表現しているのである。けれども当時の人々は吾々の今感ずるよりも、もっと自然に直接にこういうことを感じていたものに相違ない。それは万葉の他の歌を見ても分かるし、物に寄する歌でも、序詞のある歌でも、吾等の考えるよりももっと直接に感じつつああいう技法を取ったものに相違ない。そこで此歌でも、毫《ごう》もこだわりのない純粋な響を伝えているのである。もの云いに狐疑《こぎ》が無く不安が無く、子をおもうための願望を、
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