巻九・一七〇四〕 柿本人麿歌集
[#ここで字下げ終わり]
 舎人皇子《とねりのみこ》に献った歌二首中の一首で、「※[#「てへん+求」、第4水準2−13−16]手折」をウチタヲリと訓むにつき未だ精確な考証はない。「打手折撓《うちたをりた》む」という意から、同音の、「多武《たむ》」に続けた。多武峰は高市郡にある、今の塔の峯、談山《たんざん》神社のある談山《たんざん》である。細川は飛鳥川の支流、多武峰の西にあって、細川村と南淵村の間を過ぎて飛鳥川に注いでいる。一首の意は、多武の峰に雲霧しげく風が起って居るのか、細川の瀬に波が立って音が高い、というのである。
 こういう自然観入は、既に、「弓月《ゆつき》が岳に雲たちわたる」の歌でも云った如く、余程鋭敏に感じたものと見える。そして人麿歌集所出の歌だから、恐らく人麿の作であろう。なおこの歌の傍に、「ぬばたまの夜霧《よぎり》は立ちぬ衣手《ころもで》を高屋《たかや》の上に棚引くまでに」(巻九・一七〇六)という舎人皇子の御歌がある。「衣手を」を、枕詞として「たか」に続けたのは、タク(カカグ)という意だろうという説がある。高屋は地名であろうが、その存在は未詳である。この御歌の調べ高いのは、やはり時代的関係で人麿などを中心とする交流のためだかも知れない。この歌にも寓意を考え、「此歌上句ハ佞人《ねいじん》ナドノ官ニ在テ君ノ明ヲクラマシテ恩光ヲ隔ルニ喩《たと》へ、下句ハソレニ依テ細民ノ所ヲ得ザルヲ喩フル歟」(代匠記)等というが、こういう解釈の必要は毫も無い。

           ○

[#ここから5字下げ]
御食《みけ》むかふ南淵山《みなぶちやま》の巌《いはほ》には落《ふ》れる斑雪《はだれ》か消《き》え残《のこ》りたる 〔巻九・一七〇九〕 柿本人麿歌集
[#ここで字下げ終わり]
 弓削皇子《ゆげのみこ》に献った歌一首という題があり、人麿歌集所出の歌である。「御食《みけ》むかふ」は、御食《みけ》に供える物の名に冠らせる詞で、此処の南淵山《みなぶちやま》に冠らせたのは、蜷貝《みながい》か、御魚《みな》かのミナの音に依《よ》ってであろう。当時は蜷貝を食用としたから、こういう枕詞が出来たものである。南淵山は高市郡高市村字冬野から稲淵にかけた山である。
 一首の意は、南淵山を見ると、巌の上に雪が残っておる、これは先《さき》ごろ降った春の斑雪《はだれ》であろう、というので、叙景の歌で、こういう佳景を歌に詠んで、皇子に献じたもので、寓意などは無かろうのに、先学等は「下心《したごころ》あるべし」などと云って、寓意を「皇子の御恩光にもれしを訴るやうによみて献れるにや、さてこの作者南淵氏の人などにてありしにや」(古義)と云々しているのは、学者等の一つの迷いである。この歌は叙景歌として、しっとりと落着いて、重厚にして単純、清厳《せいげん》とも謂うべき一首の味いである。「巌には」の「には」、「降れる斑雪か」の「か」のあたりに、微《かす》かに息《いき》を休めてしずかな感情を湛《たた》え、結句の、「消え残りたる」は、迫らない静かなゆらぎを持った句で、清厳の気は大体ここに発している。
 この歌は、結局原本、「削遺有」とあるので、旧訓チルナミ・タレカ・ケヅリ・ノコセルであったのを、真淵の考で、千蔭の説により、「削」は「消」だとして、フレルハダレカ・キエノコリタルと訓んだ。この真淵の訓以前は、甚だしく面倒な解釈をしていたので、無理が多くて、一首の妙味を発揮することの出来なかったものである。作者と南淵山との位置関係は、「弓削皇子ノオハシマス宮ヨリ南淵山ノマヂカク指向ヒテ見ユル」(代匠記)ところであったかとおもう。

           ○

[#ここから5字下げ]
落《お》ちたぎち流《なが》るる水《みづ》の磐《いは》に触《ふ》り淀《よど》める淀《よど》に月《つき》の影《かげ》見《み》ゆ 〔巻九・一七一四〕 作者不詳
[#ここで字下げ終わり]
 芳野宮に行幸あった時の歌だが、その御代も不明だし作者もまた不明である。一首の意は、いきおいよく激《たぎ》って流れて来た水が、一旦巌石に突当って、其処に淵をなしている。その淵に月影が映っている、というので、水面の月光を現に見て居る光景だが、その水面の説明をも加えている。淵の出来ている具合と、激流との関係をも叙しているから、全体が益々《ますます》印象明瞭となった。前半を直線的に云い下したから、「淀める淀」と云って曲線的に緊《し》めている。以前この「淀める淀」という繰返しを気にしたが、或はこれが自然的な技法なのかも知れないし、それから「水の磐に触り」の「の」などもやはり、「の」が最も適切な助詞として受取るべきもののようである。結句もまた落付いていて大家の風格を持ったものである。此歌と一しょにある一首
前へ 次へ
全133ページ中83ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング