光明皇后
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 藤皇后《とうこうごう》(光明《こうみょう》皇后)が聖武天皇に奉られた御歌である。皇后は藤原|不比等《ふひと》の女、神亀元年二月聖武天皇夫人。ついで、天平元年八月皇后とならせたまい、天平宝字四年六月崩御せられた。御年六十。この美しく降った雪を、若しお二人で眺めることが叶《かな》いましたならば、どんなにかお懽《うれ》しいことでございましょう、というのである。斯《か》く尋常に、御おもいの儘、御会話の儘を伝えているのはまことに不思議なほどである。特に結びの、「懽《うれ》しからまし」の如き御言葉を、皇后の御生涯と照らしあわせつつ味い得るということの、多幸を私等はおもわねばならぬのである。「見ませば」は、「草枕旅ゆく君と知らませば」(巻一・六九)、「悔しかも斯く知らませば」(巻五・七九七)、「夜わたる月にあらませば」(巻十五・三六七一)等の例と同じく、マセはマシという助動詞の将然段に条件づけた云い方で、知らましせば、あらましせば、見ましせばぐらいの意であろうか。精《くわ》しいことは専門の書物にゆずる。なお「あしひきの山より来《き》せば」(巻十・二一四八)も参考になろうか。ウレシという語も、「何すとか君を厭《いと》はむ秋萩のその初花の歓《うれ》しきものを」(同・二二七三)などの用法と殆ど同じである。
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巻第九

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巨椋《おほくら》の入江《いりえ》響《とよ》むなり射部人《いめびと》の伏見《ふしみ》が田居《たゐ》に雁《かり》渡《わた》るらし 〔巻九・一六九九〕 柿本人麿歌集
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 宇治河にて作れる歌二首の一つで、人麿歌集所出の歌である。巨椋《おおくら》の入江は山城久世郡の北にあり、今の巨椋《おぐら》池である。「射部人《いめびと》」は、鹿猟の時に、隠れ臥して弓を射るから、「伏」に聯《つら》ねて枕詞とした。「高山の峯のたをりに、射部《いめ》立てて猪鹿《しし》待つ如」(巻十三・三二七八)の例がある。一首の意は、いま巨椋《おおくら》の入江に大きい音が聞こえている。これは群雁が伏見の水田の方に渡ってゆく音らしい、というので、「入江|響《とよ》むなり」と、ずばりと云い切って、雁の群れ立つその羽音と鳴声とを籠《こ》めているのも古調のいいところである。そして、斯《こ》ういう使い方は万葉にも少く、普通は、鳴きとよむ、榜《こ》ぎとよむ、鳥が音とよむ等、或は「山吹の瀬の響《とよ》むなべ」(巻九・一七〇〇)、「藤江の浦に船ぞ動《とよ》める」(巻六・九三九)ぐらいの用例である。それも響、動をトヨムと訓むことにしての例である。そうして見れば、「入江響むなり」の用例は簡潔で巧《たくみ》なものだと云わねばならない。この句は旧訓ヒビクナリであったのを、代匠記で先ず注意訓をして「響ハトヨムトモ読ベシ」と云い、略解《りゃくげ》から以降こう訓むようになったのである。調べが大きく、そして何処かに鋭い響を持っているところは、或は人麿的だと謂《い》うことが出来るであろう。ついでに云うと、この歌の、「田居に」の「に」は方嚮《ほうこう》をも含んでいる用例で、「小野《をぬ》ゆ秋津に立ちわたる雲」(巻七・一三六八)、「京方《みやこべ》に立つ日近づく」(巻十七・三九九九)、「山の辺にい行く猟師《さつを》は」(巻十・二一四七)等の「に」と同じである。

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さ夜中《よなか》と夜《よ》は深《ふ》けぬらし雁《かり》が音《ね》の聞《きこ》ゆる空《そら》に月《つき》渡《わた》る見《み》ゆ 〔巻九・一七〇一〕 柿本人麿歌集
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 弓削皇子《ゆげのみこ》に献《たてまつ》った歌三首中の一つで、人麿歌集所出である。一首は、もう夜が更けたと見え、雁の鳴きつつとおる空に、月も低くなりかかっている、というので、「月わたる」は、月が段々移行する趣で、傾きかかるということになる。ありの儘に淡々といい放っているのだが、決してただの淡々ではない。これも本当の日本語で日本的表現だということも出来るほどの、流暢《りゅうちょう》にしてなお弾力を失わない声調である。先学《せんがく》はこの歌にも寓意を云々《うんぬん》し、「弓削皇子にたてまつる歌なれば、をのをのふくめる心あるべし」(代匠記初稿本)、「いかで早く御恩沢を下したまへかし。と身のほどを下心に訴るならむ」(古義)等と云うが、これだけの自然観照をしているのに、寓意寓意といって、官位の事などを混入せしめるのは、歌の鑑賞の邪魔物である。

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うちたをり多武《たむ》の山霧《やまきり》しげみかも細川《ほそかは》の瀬《せ》に波《なみ》の騒《さわ》げる 〔
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