程に思わぬが、そのあたりの歌を読んで来ると、やはり選は此歌に逢着《ほうちゃく》するのである。此歌は一首に三つも地名が詠込《よみこ》まれている。「朝霞たなびく野べにあしひきの山ほととぎすいつか来鳴かむ」(巻十・一九四〇)の例があるが、民謡風だから「個」の作者が隠れて居り、それだけ呑気《のんき》である。この近くにある、「もののふの磐瀬の杜《もり》の霍公鳥いまも鳴かぬか山のと陰に」(巻八・一四七〇)でも内容が似ているが、これも呑気である。

           ○

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夏山《なつやま》の木末《こぬれ》の繁《しじ》にほととぎす鳴《な》き響《とよ》むなる声《こゑ》の遙《はる》けさ 〔巻八・一四九四〕 大伴家持
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 大伴家持《おおとものやかもち》の霍公鳥《ほととぎす》の歌であるが、「夏山の木末の繁《しじ》」は作者の観《み》たところであろうが、前出の、「山の際の遠きこぬれ」の方が旨《うま》いようにもおもう。「こゑの遙けさ」というのが此一首の中心で、現実的な強味がある。この巻(一五五〇)に、湯原王《ゆはらのおおきみ》の、「秋萩の散りのまがひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遙けさ」も家持の歌に似ているが、家持の歌のまさっているのは、実際的のひびきがあるためである。然るに巻十(一九五二)に、「今夜《このよひ》のおぼつかなきに霍公鳥鳴くなる声の音の遙けさ」というのがあり、家持はこれを模倣しているのである。併し、「夏山の木末の繁に」といって生かしているのを後代の吾等は注意していい。「繁《しじ》に」は槻落葉《つきのおちば》にシゲニと訓《よ》んでいる。

           ○

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夕《ゆふ》されば小倉《をぐら》の山《やま》に鳴《な》く鹿《しか》は今夜《こよひ》は鳴《な》かず寝宿《いね》にけらしも 〔巻八・一五一一〕 舒明天皇
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 秋|雑歌《ぞうか》、崗本《おかもと》天皇(舒明《じょめい》天皇)御製歌一首である。小倉山は恐らく崗本宮近くの山であろうが、その辺に小倉山の名が今は絶えている。一首の意は、夕がたになると、いつも小倉の山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない、多分もう寝てしまったのだろうというのである。いつも妻をもとめて鳴いている鹿が、妻を得た心持であるが、結句は、必ずしも率寝《いね》の意味に取らなくともいい。御製は、調べ高くして潤《うるお》いがあり、豊かにして弛《たる》まざる、万物を同化|包摂《ほうせつ》したもう親愛の御心の流露《りゅうろ》であって、「いねにけらしも」の一句はまさに古今無上の結句だとおもうのである。第四句で、「今夜は鳴かず」と、其処に休止を置いたから、結句は独立句のように、豊かにして逼《せま》らざる重厚なものとなったが、よく読めばおのずから第四句に縷《いと》の如くに続き、また一首全体に響いて、気品の高い、いうにいわれぬ歌調となったものである。「いねにけらしも」は、親愛の大御心であるが、素朴・直接・人間的・肉体的で、後世の歌にこういう表現のないのは、総べてこういう特徴から歌人の心が遠離して行ったためである。此御歌は万葉集中最高峰の一つとおもうので、その説明をしたい念願を持っていたが、実際に当ると好い説明の文を作れないのは、この歌は渾一体《こんいったい》の境界にあってこまごましい剖析《ぼうせき》をゆるさないからであろうか。
 此歌の第三句、旧板本「鳴鹿之」となっているから、訓は「ナクシカノ」である。然るに古鈔本(類・神・西・温・矢・京)には、「之」の字が「者」となって居り、また訓も「ナクシカハ」(類・神・温・矢・京)となって居るのがある。注釈書では既に拾穂抄でこれを注意し、代匠記で、官本之作[#レ]者、点云、ナクシカハ。別校本或同[#レ]此。幽斎本之作[#レ]者、点云、ナクシカノ、と注した。そこで近時、「ナクシカハ」の訓に従うようになったが、古今六帖には、「鳴く鹿の」となって居り、又幽斎本では鳴鹿者と書いて、「ナクシカノ」と訓んで、また旧板本は鳴鹿之であるから、「ナクシカノ」という訓も古くからあったことが分かる。もっとも、「鳴鹿之」は巻九巻頭の、「臥鹿之」の「之」に拠《よ》って直したとも想像することも出来るが、兎も角長い期間「鳴く鹿の」として伝わって来ている。今となって見れば、「鳴く鹿は[#「は」に白丸傍点]」の方は、「今夜は[#「は」に白丸傍点]」と続いて、古調に響くから、「鳴く鹿は」の方が原作かも知れないけれども、「鳴く鹿の」としても、充分味うことの出来る歌である。
 なお、一寸《ちょっと》前言した如く、巻九(一六六四)に、雄略天皇御製歌として、「ゆふされば小倉の山に臥す鹿の今夜《こよひ》は鳴かず寐《い》ねにけらしも」という歌が載《の》っていて、二つ
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