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山部赤人の歌で、春の原に菫《すみれ》を採《つ》みに来た自分は、その野をなつかしく思って一夜|宿《ね》た、というのである。全体がむつかしくない、赤人的な清朗な調べの歌であるが、菫咲く野に対する一つの係恋《けいれん》といったような情調を感じさせる歌である。即ち極く広義の恋愛情調であるから、説く人によっては、恋人のことを歌ったのではないかと詮議《せんぎ》するのであるが、其処《そこ》まで云わぬ方が却《かえ》っていい。また略解は「菫つむは衣|摺《すら》む料なるべし」とあるが、これも主要な目的ではないであろう。本来菫を摘むというのは、可憐な花を愛するためでなく、その他の若草と共に食用として摘んだものである。和名鈔《わみょうしょう》の菫菜で、爾雅《じが》に、※[#「さんずい+(勹<一)」、下−6−6]食[#レ]之滑也。疏可[#レ]食之菜也とあるによって知ることが出来る。併《しか》し此処は、「春日野に煙立つ見ゆ※[#「女+感」、下−6−7]嬬《をとめ》らし春野の菟芽子《うはぎ》採みて煮らしも」(巻十・一八七九)という歌のように直ぐ食用にして居る野菜として菫を聯想せずに、第一には可憐な菫の花の咲きつづく野を聯想すべきであり、また其処に恋人などの関係があるにしても、それは奥に潜《ひそ》める方が鑑賞の常道のようである。
この歌で、「吾ぞ」と強めて云っていても、赤人の歌だから余り目立たず、「野をなつかしみ」といっても、余り強く響かず、従って感情を強いられるような点も少いのだが、そのうちには少し甘くて物足りぬということが含まっているのである。赤人の歌には、「潟《かた》をなみ」、「野をなつかしみ」というような一種の手法傾向があるが、それが清潔な声調で綜合《そうごう》せられている点は、人の許す万葉第一流歌人の一人ということになるのであろうか。併しこの歌は、富士山の歌ほどに優れたものではない。巻七(一三三二)に、「磐が根の凝《こご》しき山に入り初《そ》めて山なつかしみ出でがてぬかも」という歌があり、これは寄[#レ]山歌だからこういう表現になるのだが、寧《むし》ろ民謡風に楽《らく》なもので、赤人の此歌と較《くらべ》れば赤人の歌ほどには行かぬのである。また、巻十(一八八九)の、「吾が屋前《やど》の毛桃《けもも》の下に月夜《つくよ》さし下心《したごころ》よしうたて此の頃」という歌は、譬喩《ひゆ》歌ということは直ぐ分かって、少しうるさく感ぜしめる。此等と比較しつつ味うと赤人の歌の好いところもおのずから分かるわけである。なお、赤人の歌には、この歌の次に、「あしひきの山桜花|日《け》ならべて斯《か》く咲きたらばいと恋ひめやも」(巻八・一四二五)ほか二首があり、清淡でこまかい味《あじわ》いであるが、結句は、やはり弱い。なお、「恋しけば形見にせむと吾が屋戸《やど》に植ゑし藤浪いま咲きにけり」(同・一四七一)があり、これを模して家持《やかもち》が、「秋さらば見つつ偲《しの》べと妹が植ゑし屋前《やど》の石竹《なでしこ》咲きにけるかも」(巻三・四六四)と作っているが、共に少し当然過ぎて、感に至り得ないところがある。赤人の歌でも、「今咲きにけり」が弱いのである。なお参考句に、「春の野に菫を摘むと、白妙の袖折りかへし」(巻十七・三九七三)がある。
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百済野《くだらぬ》の萩《はぎ》の古枝《ふるえ》に春《はる》待《ま》つと居《を》りし鶯《うぐいす》鳴《な》きにけむかも 〔巻八・一四三一〕 山部赤人
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山部赤人の歌で、春到来の心を詠んでいる。百済野は大和《やまと》北葛城《きたかつらぎ》郡|百済《くだら》村附近の原野である。「萩の古枝」は冬枯れた萩の枝で、相当の高さと繁みになったものであろう。「春待つと居りし」あたりのいい方は、古調のいいところであるが、旧訓スミシ・ウグヒスであったのを、古義では脱字説を唱え、キヰシ・ウグヒスと訓《よ》んだ。併し古い訓(類聚古集・神田本)の、ヲリシウグヒスの方がいい。この歌も、何でもないようであるが、徒《いたず》らに興奮せずに、気品を保たせているのを尊敬すべきである。これも期せずして赤人の歌になったが、選んで来て印をつけると、自然こういう結果になるということは興味あることで、もっと先きの巻に於ける家持の歌の場合と同じである。
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蝦《かはづ》鳴《な》く甘南備河《かむなびがは》にかげ見《み》えて今《いま》か咲《さ》くらむ山吹《やまぶき》の花《はな》 〔巻八・一四三五〕 厚見王
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厚見王《あつみのおおきみ》の歌一首。厚見王は続紀《しょくき》に、天平勝宝《てんぴょうしょうほう》元年に従五位下
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