たるみ》の両説がある。若し地名だとしても、垂水即ち小滝を写象の中に入れなければ此歌は価値が下るとおもうのである。次に此歌に寓意《ぐうい》を求める解釈もある。「此御歌イカナル御懽有テヨマセ給フトハシラネド、垂水ノ上トシモヨマセ給ヘルハ、若《もし》帝ヨリ此処ヲ封戸《ふご》ニ加へ賜ハリテ悦バセ給ヘル歟《か》。蕨ノ根ニ隠リテカヾマリヲレルガ、春ノ暖気ヲ得テ萌出ルハ、実ニ悦コバシキ譬《たとへ》ナリ。御子白壁王不意ニ高|御座《ミクラ》ニ昇《ノボ》ラセ給ヒテ、此皇子モ田原天皇ト追尊セラレ給ヒ、皇統今ニ相ツヾケルモ此歌ニモトヰセルニヤ」(代匠記)といい、考・略解《りゃくげ》・古義これに従ったが、稍《やや》穿鑿《せんさく》に過ぎた感じで、寧《むし》ろ、「水流れ草もえて万物の時をうるを悦び給へる御歌なるべし」(拾穂抄《しゅうすいしょう》)の簡明な解釈の方が当っているとおもう。なお、「石走《いはばし》る垂水の水の愛《は》しきやし君に恋ふらく吾が情《こころ》から」(巻十二・三〇二五)という参考歌がある。
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神奈備《かむなび》の伊波瀬《いはせ》の杜《もり》の喚子鳥《よぶこどり》いたくな鳴《な》きそ吾《わ》が恋《こひ》益《まさ》る 〔巻八・一四一九〕 鏡王女
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鏡王女《かがみのおおきみ》の歌である。鏡王女は鏡王《かがみのおおきみ》の女《むすめ》で額田王《ぬかだのおおきみ》の御姉に当り、はじめ天智天皇の御寵《おんちょう》を受け、後|藤原鎌足《ふじわらのかまたり》の正妻となった。此処《ここ》の神奈備《かむなび》は竜田《たつた》の神奈備で飛鳥《あすか》の神奈備ではない。生駒《いこま》郡竜田町の南方に車瀬という処に森がある。それが伊波瀬の森である。喚子鳥《よぶこどり》は大体|閑古鳥《かんこどり》の事として置く。一首の意は、神奈備の伊波瀬の森に鳴く喚子鳥よ、そんなに鳴くな、私の恋しい心が増すばかりだから、というのである。
「いたく」は、強く、熱心に、度々、切実になどとも翻《ほん》し得、口語なら、「そんなに鳴くな」ともいえる。喚子鳥の声は、人に愬《うった》えて呼ぶようであるから、その声を聞いて自分の身の上に移して感じたものである。この聯想《れんそう》から来る感じは万葉の歌に可なり多いが、当時の人々は何時《いつ》の間《ま》にか斯《こ》う無理なく表現し得るようになっていたのだろう。人麿の、「夕浪千鳥|汝《な》が鳴けば」でもそうであった。それだから此歌でも、現代の読者にまでそう予備的な心構えがなくも受納《うけい》れられ、極《ご》く単純な内容のうちに純粋な詠歎のこえを聞くことが出来るのである。王女は額田王の御姉であったから、額田王の歌にも共通な言語に対する鋭敏がうかがわれるが、額田王の歌よりももっと素直で才鋒《さいほう》の目だたぬところがある。また時代も万葉上期だから、その頃《ころ》の純粋な響・語気を伝えている。巻八(一四六五)に、藤原夫人《ふじわらのぶにん》の、「霍公鳥《ほととぎす》いたくな鳴きそ汝が声を五月《さつき》の玉に交《あ》へ貫《ぬ》くまでに」があるが、女らしい気持だけのものである。また、やはり此巻(一四八四)に、「霍公鳥《ほととぎす》いたくな鳴きそ独《ひと》りゐて寐《い》の宿《ね》らえぬに聞けば苦しも」という大伴坂上郎女《おおとものさかのうえのいらつめ》の歌があるが、「吾が恋まさる」の簡浄《かんじょう》な結句には及ばない。これは同じ女性の歌でももはや時代の相違であろうか。
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うち靡《なび》く春《はる》来《きた》るらし山《やま》の際《ま》の遠《とほ》き木末《こぬれ》の咲《さ》きゆく見れば 〔巻八・一四二二〕 尾張連
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尾張連《おわりのむらじ》の歌としてあるが、伝不明である。一首は、山のあいの遠くまで続く木立に、きのうも今日も花が多くなって見える、もう春が来たというので、「咲きゆく」だから、次から次と花が咲いてゆく、時間的経過を含めたものだが、其処に読者を迷わせるところもなく、ゆったりとした迫らない響を感じさせている。そして、春の到来に対する感慨が全体にこもり、特に結句の「見れば」のところに集まっているようである。「木末の咲きゆく」などという簡潔ないいあらわしは、後代には跡を断《た》った。それは、幽玄とか有心《うしん》とか云って、深みを要求していながら、歌人の心の全体が常識的に分化してしまったからである。
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春《はる》の野《ぬ》に菫《すみれ》採《つ》みにと来《こ》し吾《われ》ぞ野《ぬ》をなつかしみ一夜《ひとよ》宿《ね》にける 〔巻八・一四二四〕 山部赤人
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