るのである。文法的には詠歎の助詞も助動詞も無いが、そういうものが既に含まっているとおもっていい。
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吾背子《わがせこ》を何処《いづく》行《ゆ》かめとさき竹《たけ》の背向《そがひ》に宿《ね》しく今し悔《くや》しも 〔巻七・一四一二〕 作者不詳
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これも挽歌の中に入っている。すると一首の意は、私の夫《おっと》がこのように、死んで行くなどとは思いもよらず、生前につれなくして、後《うし》ろを向いて寝たりして、今となってわたしは悔《くや》しい、ということになるであろう。「さき竹の」は枕詞だが、割った竹は、重ねてもしっくりしないので、後ろ向に寝るのに続けたものであろう。また、「背向《そがひ》に宿《ね》しく」は、男女云い争った後の行為のように取れて一層哀れも深いし、女らしいところがあっていい。
然るに、巻十四、東歌《あずまうた》の挽歌の個処に、「愛《かな》し妹を何処《いづち》行かめと山菅《やますげ》の背向《そがひ》に宿《ね》しく今し悔しも」(三五七七)というのがあり、二つ共似ているが、巻七の方が優っている。巻七の方ならば人情も自然だが、巻十四の方は稍《やや》調子に乗ったところがある。おもうに、巻七の方は未だ個人的歌らしく、つつましいところがあるけれども、それが伝誦せられているうち民謡的に変形して巻十四の歌となったものであろう。気楽に一しょになってうたうのには、「かなし妹を」の方が調子に乗るだろうが、切実の度が薄らぐのである。
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巻第八
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石激《いはばし》る垂水《たるみ》の上《うへ》のさ蕨《わらび》の萌《も》え出《い》づる春《はる》になりにけるかも 〔巻八・一四一八〕 志貴皇子
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志貴皇子《しきのみこ》の懽《よろこび》の御歌である。一首の意は、巌の面を音たてて流れおつる、滝のほとりには、もう蕨《わらび》が萌え出づる春になった、懽《よろこ》ばしい、というのである。「石激《いはばし》る」は「垂水《たるみ》」の枕詞として用いているが、意味の分かっているもので、形状言の形式化・様式化・純化せられたものと看做《みな》し得る。「垂水《たるみ》」は垂る水で、余り大きくない滝と解釈してよいようである。「垂水の上」の「上」は、ほとりというぐらいの意に取ってよいが、滝下《たきしも》より滝上《たきかみ》の感じである。この初句は、「石激」で旧訓イハソソグであったのを、考《こう》でイハバシルと訓《よ》んだ。なお、類聚古集《るいじゅうこしゅう》に「石灑」とあるから、「石《いは》そそぐ」の訓を復活せしめ、「垂水」をば、巌の面をば垂れて来る水、たらたら水の程度のものと解釈する説もあるが、私は、初句をイハバシルと訓《よ》み、全体の調子から、やはり垂水《たるみ》をば小滝ぐらいのものとして解釈したく、小さくとも激湍《げきたん》の特色を保存したいのである。
この歌は、志貴皇子の他の御歌同様、歌調が明朗・直線的であって、然かも平板《へいばん》に堕《おち》ることなく、細かい顫動《せんどう》を伴いつつ荘重なる一首となっているのである。御懽びの心が即ち、「さ蕨の萌えいづる春になりにけるかも」という一気に歌いあげられた句に象徴せられているのであり、小滝のほとりの蕨に主眼をとどめられたのは、感覚が極めて新鮮だからである。この「けるかも」と一気に詠みくだされたのも、容易なるが如くにして決して容易なわざではない。集中、「昔見し象《きさ》の小河を今見ればいよよ清《さや》けくなりにけるかも」(巻三・三一六)、「妹として二人作りし吾が山斎《しま》は木高《こだか》く繁くなりにけるかも」(巻三・四五二)、「うち上《のぼ》る佐保の河原の青柳は今は春べとなりにけるかも」(巻八・一四三三)、「秋萩の枝もとををに露霜おき寒くも時はなりにけるかも」(巻十・二一七〇)、「萩が花咲けるを見れば君に逢はず真《まこと》も久になりにけるかも」(巻十・二二八〇)、「竹敷のうへかた山は紅《くれなゐ》の八入《やしほ》の色になりにけるかも」(巻十五・三七〇三)等で、皆一気に流動性を持った調べを以て歌いあげている歌であるが、万葉の「なりにけるかも」の例は実に敬服すべきものなので、煩《はん》をいとわず書抜いて置いた。そして此等の中にあっても志貴皇子の御歌は特にその感情を伝えているようにおもえるのである。此御歌は皇子の御作中でも優《すぐ》れており、万葉集中の傑作の一つだと謂《い》っていいようである。
大体以上の如くであるが、「垂水」を普通名詞とせずに地名だとする説があり、その地名も摂津《せっつ》豊能《とよの》郡の垂水《たるみ》、播磨《はりま》明石《あかし》郡の垂水《
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