えているのは一首も無い。けれども此処《ここ》の旋頭歌も、巻十一巻頭の旋頭歌も人麿歌集に出づというのであるから、人麿はこの形態の歌をも作ったのかも知れず、技法はなかなかの力量を思わしめるものである。併し内容は殆ど民謡的恋愛歌だから、そういう種類の古歌謡を人麿が整理したのだとも考えることが出来る。
この一首は、この長閑《のどか》な春の日ですら、お前は田に働いて疲れる、妻のいない一人ぽっちの、お前は田に働いて疲れる、というので、民謡でも労働歌というのに類し、旋頭歌だから、上の句と、下の句とどちらから歌ってもかまわないのである。「君がため手力《たぢから》疲れ織りたる衣《きぬ》ぞ、春さらばいかなる色に摺《す》りてば好《よ》けむ」(巻七・一二八一)なども、女の気持であるが、やはり労働歌で、機《はた》織りながらうたう女の歌の気持である。
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冬《ふゆ》ごもり春《はる》の大野《おほぬ》を焼《や》く人《ひと》は焼《や》き足《た》らねかも吾《わ》が情《こころ》熾《や》く 〔巻七・一三三六〕 作者不詳
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譬喩歌《ひゆか》で、「草に寄する」歌であるが、劇しい恋愛の情をその内容として居る。「冬ごもり」は春の枕詞。一首の意は、こんなに胸が燃えて苦しくて為方《しかた》ないのは、あの春の大野を焼く人達が焼き足りないで、私の心までもこんなに焼くのか知らん、というので、譬喩的にいったから、おのずからこういう具合に聯想の歌となるのである。この聯想はただ軽く気を利《き》かして云ったもののようにもおもえるが、繰返して読めば必ずしもそうでないところがある。つまり恋情と、春の野火との聯想が、ただ軽くつながって居るのでなく、割合に自然に緊密につながっているというのである。そんならなぜ軽くつながっているように取られるかというに、「焼く人は」と、「吾が情《こころ》熾《や》く」と繰返されているために、其処が調子が好過ぎて軽く響くのである。併しこれは民謡風のものだから自然そうなるので、奈何《いかん》ともしがたいのである。この歌は明治になってから古今の傑作のように評価せられたが、今云ったように民謡風なものの中の佳作として鑑賞する方が好いであろう。
家持が、坂上大嬢《さかのうえのおおいらつめ》に贈ったのに、「夜のほどろ出でつつ来らく遍多数《たびまね》くなれば吾が胸|截《た》ち焼《や》く如し」(巻四・七五五)というがあり、「わが情《こころ》焼くも吾なりはしきやし君に恋ふるもわが心から」(巻十三・三二七一)、「我妹子に恋ひ術《すべ》なかり胸を熱《あつ》み朝戸あくれば見ゆる霧かも」(巻十二・三〇三四)というのがあるから、参考として味うことが出来る。
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秋津野《あきつぬ》に朝《あさ》ゐる雲《くも》の失《う》せゆけば昨日《きのふ》も今日《けふ》も亡《な》き人《ひと》念《おも》ほゆ 〔巻七・一四〇六〕 作者不詳
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挽歌の中に載せている。吉野離宮の近くにある秋津野に朝のあいだ懸《か》かっていた雲が無くなると(この雲は火葬の烟《けむり》である)、昨日も今日も亡くなった人がおもい出されてならない、というのである。人麿が土形娘子《ひじかたのおとめ》を泊瀬《はつせ》山に火葬した時詠んだのに、「隠口《こもりく》の泊瀬の山の山の際《ま》にいさよふ雲は妹にかもあらむ」(巻三・四二八)とあるのは、当時まだ珍しかった、火葬の烟をば亡き人のようにおもった歌である。また出雲娘子《いずものおとめ》を吉野に火葬した時にも、「山の際ゆ出雲《いづも》の児等は霧なれや吉野の山の嶺《みね》に棚引《たなび》く」(同・四二九)とも詠んでいるので明かである。此一首は取りたてて秀歌と称する程のものでないが、挽歌としての哀韻と、「雲の失せゆけば」のところに心が牽《ひ》かれたのであった。
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福《さきはひ》のいかなる人《ひと》か黒髪《くろかみ》の白《しろ》くなるまで妹《いも》が音《こゑ》を聞《き》く 〔巻七・一四一一〕 作者不詳
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自分は恋しい妻をもう亡《な》くしたが、白髪になるまで二人とも健《すこや》かで、その妻の声を聞くことの出来る人は何と為合《しあわ》せな人だろう、羨《うらやま》しいことだ、というので、「妹が声を聞く」というのが特殊でもあり一首の眼目でもあり古語のすぐれたところを示す句でもある。現代人の言葉などにはこういう素朴で味のあるいい方はもう跡を絶ってしまった。
一般的なようなことを云っていて、作者の身と遊離しない切実ないい方で、それから結句に、「こゑを聞く」と結んでいるが、「聞く」だけで詠歎の響があ
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