らめ」(巻七・一三六六)は、寄[#(スル)][#レ]鳥[#(ニ)]の譬喩歌《ひゆか》だから、此歌とは違うが、譬喩は譬喩らしくいいところがある。

           ○

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宇治川《うぢがは》を船《ふね》渡《わた》せをと喚《よ》ばへども聞《きこ》えざるらし楫《かぢ》の音《と》もせず 〔巻七・一一三八〕 作者不詳
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「山背《やましろ》にて作れる」歌の一首である。「渡せを」の「を」は呼びかける時、命令形に附く助詞で、「よ」に通う。一首は、宇治河の岸に来て、船を渡せと呼ぶけれども、呼ぶのが聞こえないらしい、榜《こ》いで来る櫂《かい》の音がしない、というので、多分夜の景であろうが、宇治の急流を前にして、規模の大きいような、寂しいような変な気持を起させる歌である。これは、「喚ばへども聞《きこ》えざるらし」のところにその主点があるためである。
 なお此歌の処に、「宇治河は淀瀬《よどせ》無からし網代人《あじろびと》舟呼ばふ声をちこち聞ゆ」(巻七・一一三五)、「千早人《ちはやびと》宇治川浪を清みかも旅《たび》行《ゆ》く人の立ち難《がて》にする」(同・一一三九)等の歌もある。網代人は網代の番をする人。千早《ちはや》人は氏《うじ》に続き、同音の宇治《うじ》に続く枕詞である。皆、旅中感銘したことを作っているのである。

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しなが鳥《どり》猪名野《いなぬ》を来《く》れば有間山《ありまやま》夕霧《ゆふぎり》立《た》ちぬ宿《やど》は無《な》くして 〔巻七・一一四〇〕 作者不詳
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 摂津にて作れる歌である。「しなが鳥」は猪名《いな》につづく枕詞で、しなが鳥即ち鳰鳥《におどり》が、居並《いなら》ぶの居《い》と猪《い》とが同音であるから、猪名の枕詞になった。猪名野は摂津、今の豊能川辺両郡に亙《わた》った、猪名川流域の平野である。有間山は今の有馬温泉のあるあたり一帯の山である。結句の「宿はなくして」は、前出の、「家もあらなくに」などと同一筆法だが、これは旅の実際を歌ったもののようである。それだから作者不明でも、誰の心にも通ずる真実性があると看《み》ねばならぬ。それから現在吾々が注意するのは、「有間山夕霧たちぬ」と切ったところにある。有間山は万葉にはただ二カ処だけに出ているが、後になると、「有間山猪名の笹原かぜふけばいでそよ人を忘れやはする」などの如く歌名所になった。

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家《いへ》にして吾《われ》は恋《こ》ひむな印南野《いなみぬ》の浅茅《あさぢ》が上《うへ》に照《て》りし月夜《つくよ》を 〔巻七・一一七九〕 作者不詳
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 ※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅《きりょ》の歌。印南野で見た、浅茅《あさぢ》の上の月の光を、家に帰ってからもおもい出すことだろうというので、印南野を過ぎて来てからの口吻《こうふん》のようだが、それは「照りし月夜を」にあるので、併し縦《たと》い過ぎて来たとしても、印象が未だ新しいのだから、「照れる月夜を」ぐらいの気持で味ってもいい歌である。
 いずれにしても、広い印南野の月光に感動しているところで、「恋ひむな」といっても、天然を恋うるので、そこにこの歌の特色がある。この歌の側に、「印南野は行き過ぎぬらし天《あま》づたふ日笠《ひがさ》の浦に波たてり見ゆ」(巻七・一一七八)というのがあるが、これも佳い歌である。

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たまくしげ見諸戸山《みもろとやま》を行《ゆ》きしかば面白《おもしろ》くしていにしへ念《おも》ほゆ 〔巻七・一二四〇〕 作者不詳
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「見諸戸《みもろと》山」は、即ち御室処《みむろと》山の義で、三輪山のことである。「面白し」は、感深いぐらいの意で、万葉では、何怜とも書いて居る。「生《い》ける世に吾《あ》はいまだ見ず言絶《ことた》えて斯く何怜《おもしろ》く縫へる嚢《ふくろ》は」(巻四・七四六)、「ぬばたまの夜わたる月を何怜《おもしろ》み吾が居る袖に露ぞ置きにける」(巻七・一〇八一)、「おもしろき野をばな焼きそ古草《ふるくさ》に新草《にひくさ》まじり生《お》ひは生《お》ふるがに」(巻十四・三四五二)、「おもしろみ我を思へか、さ野《ぬ》つ鳥来鳴き翔《かけ》らふ」(巻十六・三七九一)等の例があり、現代の吾等が普段いう、「面白い」よりも深みがあるのである。そこで、此歌は、三輪山の風景が佳くて神秘的にも感ぜられるので、「いにしへ思ほゆ」即ち、神代の事もおもわれると云ったのである。平賀元義の歌に、「鏡山雪に朝日の照るを見てあな面白と歌ひけるかも」というのがあるが
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