]歌七首長一首短六首」の短歌である。長歌の方は、人間には老・病の苦しみがあり、長い病に苦しんで、一層死のうとおもうことがあるけれども、児等のことを思えば、そうも行かずに歎息しているというのである。
この短歌は、そういう風に老・病のために苦しんで、慰めん手段もなく、雲隠れに貌《すがた》も見えず鳴いてゆく鳥の如く、ただ独りで忍び泣きしてばかりいる、というので、長歌の終に、「彼《か》に此《かく》に思ひわづらひ、哭《ね》のみし泣かゆ」と止めたのを、この短歌で繰返している。
このくらいの技巧の歌は、万葉には幾つもあるように思う程、取り立てて特色のあるものでないが、何か悲しい響があるようで棄て難かったのである。
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術《すべ》もなく苦《くる》しくあれば出《い》で走《はし》り去《い》ななと思《も》へど児等《こら》に障《さや》りぬ 〔巻五・八九九〕 山上憶良
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同じく短歌。もう手段も尽き、苦しくて為方がないので、走り出して自殺でもしてしまおうと思うが、児等のために妨げられてそれも出来ない、というので、此は長歌の方で、「年長く病みし渡れば、月|累《かさ》ね憂ひ吟《さまよ》ひ、ことごとは死ななと思へど、五月蠅《さばへ》なす騒ぐ児等を、棄《うつ》てては死《しに》は知らず、見つつあれば心は燃えぬ」云々というのが此短歌にも出ている。「障《さや》る」は、障礙《しょうがい》のことで、「百日《ももか》しも行かぬ松浦路《まつらぢ》今日行きて明日は来なむを何か障《さや》れる」(巻五・八七〇)にも用例がある。
この歌の好いのは、ただ概括的にいわずに、具体的に云っていることで、こういう場面になると、人麿にも無い人間の現実的な姿が現出して来るのである。「出ではしり去ななともへど」というあたりの、朴実とでも謂うような調べは、憶良の身に即《つ》き纏《まと》ったものとして尊重していいであろう。なお此処《ここ》に、「富人《とみびと》の家《いへ》の子等《こども》の着る身無《みな》み腐《くた》し棄つらむ絹綿らはも」(巻五・九〇〇)、「麁妙《あらたへ》の布衣《ぬのぎぬ》をだに着せ難《がて》に斯くや歎かむ為《せ》むすべを無み」(同・九〇一)という歌もあるが、これも具体的でおもしろい。そして、これだけの材料を扱いこなす意力をも、後代の吾等は尊重すべきである。この歌の「絹綿」は原文「※[#「糸+包」、上−188−1]綿」で、真綿の意であろうが、当時筑紫の真綿の珍重されたこと、また名産地であったことは沙弥満誓の歌のところで既に云ったとおりである。
憶良は娑婆界の貧・老・病の事を好んで歌って居り、どうしても憶良自身の体験のようであるが、筑前国司であった憶良が実際斯くの如く赤貧困窮であったか否か、自分には能く分からないが、自殺を強いられるほどそんなに貧窮ではなかったものと想像する。そして彼は彼の当時教えられた大陸の思想を、周辺の現実に引き移して、如上《じょじょう》の数々の歌を詠出したものとも想像している。
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稚《わか》ければ道行《みちゆ》き知《し》らじ幣《まひ》はせむ黄泉《したべ》の使《つかひ》負《お》ひて通《とほ》らせ 〔巻五・九〇五〕 山上憶良
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「男子《をのこ》名は古日《ふるひ》を恋ふる歌」の短歌である。左注に此歌の作者が不明だが、歌柄から見て憶良だろうと云って居る。古日《ふるひ》という童子の死んだ時弔った歌であろう。そして憶良を作者と仮定しても、古日という童子は憶良の子であるのか他人の子であるのかも分からない。恐らく他人の子であろう。(普通には、古日は憶良の子で、この時憶良は七十歳ぐらいの老翁だと解せられている。なお土屋氏は、古日はコヒと読むのかも知れないと云って居る。)
一首の意は、死んで行くこの子は、未だ幼《おさな》い童子で、冥土《めいど》の道はよく分かっていない。冥土の番人よ、よい贈物をするから、どうぞこの子を背負って通してやって呉れよ、というのである。「幣《まひ》」は、「天にます月読壮子《つくよみをとこ》幣《まひ》はせむ今夜《こよひ》の長さ五百夜《いほよ》継ぎこそ」(巻六・九八五)、「たまぼこの道の神たち幣《まひ》はせむあが念ふ君をなつかしみせよ」(巻十七・四〇〇九)等にもある如く、神に奉る物も、人に贈る物も、悪い意味の貨賂《かろ》をも皆マヒと云った。
この一首は、童子の死を悲しむ歌だが、内容が複雑で、人麿の歌の内容の簡単なものなどとは余程その趣が違っている。然かも黄泉の道行をば、恰《あたか》も現実にでもあるかの如くに生々《なまなま》しく表現して居るところに、憶良の歌の強味がある。歌調がぼきりぼきりとして流動的波動的
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