よ、後代の歌人として、作歌を学ぶ吾等にとって、大に有益をおぼえしめる性質のものである。

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常知《つねし》らぬ道《みち》の長路《ながて》をくれぐれと如何《いか》にか行《ゆ》かむ糧米《かりて》は無《な》しに 〔巻五・八八八〕 山上憶良
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 肥後国|益城《ましき》郡に大伴君熊凝《おおとものきみくまこり》という者がいた。天平三年六月、相撲部領使《すまいのことりづかい》某の従者として京へ上る途中、安芸国佐伯郡|高庭《たかにわ》駅で病死した。行年十八であった。そして、死なんとした時自ら歎息して此歌を作ったとして、山上憶良が此歌を作った。この歌の詞書に次の如くに書いてある。「臨死《みまから》むとする時、長歎息して曰く、伝へ聞く仮合《けがふ》の身滅び易く、泡沫《はうまつ》の命|駐《とど》め難し。所以《ゆゑ》に千聖|已《すで》に去り、百賢留らず、況して凡愚の微《いや》しき者、何ぞも能《よ》く逃避せむ。但《ただ》我が老いたる親|並《ならび》に菴室《あんしつ》に在り。我を待つこと日を過さば、自ら心を傷《いた》むる恨あらむ。我を望みて時に違《たが》はば、必ず明《めい》を喪《うしな》ふ泣《なみだ》を致さむ。哀しきかも我が父、痛ましきかも我が母、一身死に向ふ途を患《うれ》へず、唯二親世に在《いま》す苦を悲しぶ。今日長く別れなば、何れの世にか覲《み》ることを得む。乃《すなは》ち歌六首を作りて死《みまか》りぬ。其歌に曰く」というのである。そして長歌一首短歌五首がある。併しこれは、前言のごとく、熊凝《くまこり》が自ら作ったのではなく、憶良が熊凝の心になって、熊凝臨終のつもりになって作ったのである。
 一首の意は、嘗て知らなかった遙かな黄泉の道をば、おぼつかなくも心悲しく、糧米《かて》も持たずに、どうして私は行けば好いのだろうか、というのである。「くれぐれと」は、「闇闇《くれくれ》と」で、心おぼろに、おぼつかなく、うら悲しく等の意である。この歌の前に、「欝《おぼほ》しく何方《いづち》向きてか」というのがあるが、その「おぼほしく」に似ている。
 この歌は六首の中で一番優れて居り、想像で作っても、死して黄泉へ行く現身《げんしん》の姿のようにして詠んでいるのがまことに利いて居る。糧米も持たずに歩くと云ったのも、後代の吾等の心を強く打つものである。糧米をカリテと訓むは、霊異記《りょういき》下巻に糧(可里弖)とあるによっても明かで、乾飯直《カレヒテ》の義(攷證)だと云われている。一に云、「かれひはなしに」とあるのは、「餉《かれひ》は無《な》しに」で意味は同じい。カレヒは乾飯《カレイヒ》である。憶良の作ったこのあたりの歌の中で、私は此一首を好んでいる。

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世間《よのなか》を憂《う》しと恥《やさ》しと思《おも》へども飛《と》び立《た》ちかねつ鳥《とり》にしあらねば 〔巻五・八九三〕 山上憶良
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 山上憶良の「貧窮問答の歌一首并に短歌」(土屋氏云、憶良上京後、即ち天平三年秋冬以後の作であろう。)の短歌である。長歌の方は、二人貧者の問答の体で、一人が、「風|雑《まじ》り雨降る夜の、……如何にしつつか、汝《な》が世は渡る」といえば、一人が、「天地は広しといへど、あが為《ため》は狭《さ》くやなりぬる、……斯くばかり術《すべ》無きものか、世間《よのなか》の道」と答えるところで、万葉集中特殊なもので、また憶良の作中のよいものである。
 この反歌一首の意は、こう吾々は貧乏で世間が辛《つら》いの恥《はず》かしいのと云ったところで、所詮《しょせん》吾々は人間の赤裸々で、鳥ではないのだからして、何処ぞへ飛び去るわけにも行くまい、というのである。「やさし」は、恥かしいということで、「玉島のこの川上に家はあれど君を恥《やさ》しみ顕《あらは》さずありき」(巻五・八五四)にその例がある。この反歌も、長歌の方で、細かくいろいろと云ったから、概括的に締めくくったのだが、やはり貧乏人の言葉にして、その語気が出ているのでただの概念歌から脱却している。論語に、邦有[#レ]道、貧且賤焉耻也とあり、魏文帝の詩に、願[#レ]飛安[#(ゾ)]得[#(ン)][#レ]翼、欲[#レ]済《ワタラント》河無[#レ]梁《ハシ》とあるのも参考となり、憶良の長歌の句などには支那の出典を見出し得るのである。

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慰《なぐさ》むる心《こころ》はなしに雲隠《くもがく》り鳴《な》き往《ゆ》く鳥《とり》の哭《ね》のみし泣《な》かゆ 〔巻五・八九八〕 山上憶良
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 山上憶良の、「老身重病経[#レ]年辛苦、及思[#二]児等[#一
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