なり》を為《し》まさに 〔巻五・八〇一〕 山上憶良
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 山上憶良は、或る男が、両親妻子を軽んずるのをみて、その不心得を諭《さと》して、「惑情を反《かへ》さしむる歌」というのを作った、その反歌がこの歌である。長歌の方は、「父母を見れば尊し、妻子《めこ》見ればめぐし愛《うつく》し、世の中はかくぞ道理《ことわり》」、「地《つち》ならば大王《おほきみ》います、この照らす日月の下は、天雲《あまぐも》の向伏《むかふ》す極《きはみ》、谷蟆《たにぐく》のさ渡る極、聞《きこ》し食《を》す国のまほらぞ」というのが、その主な内容で、現実社会のおろそかにしてはならぬことを云ったものである。
 反歌の此一首は、おまえは青雲の志を抱いて、天へも昇るつもりだろうが、天への道は遼遠《りょうえん》だ、それよりも、普通並に、素直に家に帰って、家業に従事しなさい、というのである。「なほなほに」は、「直直《なほなほ》に」で、素直に、尋常に、普通並にの意、「延《は》ふ葛の引かば依り来ね下《した》なほなほに」(巻十四・三三六四或本歌)の例でも、素直にの意である。結句の、「業《なり》を為《し》まさに」は、「業《なり》を為《し》まさね」で、「ね」と「に」が相通い、当時から共に願望の意に使われるから、この句は、「業務に従事しなさい」という意となる。
 この歌も、その声調が流動性でなく、寧《むし》ろ佶屈《きっくつ》とも謂《い》うべきものである。然るに内容が実生活の事に関しているのだから、声調おのずからそれに同化して憶良独特のものを成就《じょうじゅ》したのである。事が娑婆《しゃば》世界の実事であり、いま説いていることが儒教の道徳観に本《もと》づくとせば、縹緲《ひょうびょう》幽遠な歌調でない方が却って調和するのである。由来儒教の観相は実生活の常識であるから、それに本づいて出来る歌も亦結局其処に帰着するのである。憶良は、伝誦されて来た古歌謡、祝詞《のりと》あたりまで溯《さかのぼ》って勉強し、「谷ぐくのさわたるきはみ」等というけれども、作る憶良の歌というものは何処か漢文的口調のところがある。併し、万葉集全体から見れば、憶良は憶良らしい特殊の歌風を成就したということになるから、その憶良的な歌の出来のよい一例としてこれを選んで置いた。

           ○

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銀《しろがね》も金《くがね》も玉《たま》もなにせむにまされる宝《たから》子《こ》に如《し》かめやも 〔巻五・八〇三〕 山上憶良
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 山上憶良は、「子等を思ふ歌」一首(長歌反歌)を作った。序は、「釈迦如来、金口《こんく》に正しく説き給はく、等しく衆生《しゆじやう》を思ふこと、羅※[#「目+喉のつくり」、第3水準1−88−88]羅《らごら》の如しと。又説き給はく、愛は子に過ぎたるは無しと。至極の大聖すら尚ほ子を愛《うつく》しむ心あり。況《ま》して世間《よのなか》の蒼生《あをひとぐさ》、誰か子を愛《を》しまざらめや」というものであり、長歌は、「瓜《うり》食《は》めば子等《こども》思ほゆ、栗《くり》食《は》めば況してしぬばゆ、何処《いづく》より来《きた》りしものぞ、眼交《まなかひ》にもとな懸《かか》りて、安寝《やすい》し為《な》さぬ」というので、この長歌は憶良の歌としては第一等である。簡潔で、飽くまで実事を歌い、恐らく歌全体が憶良の正体と合致したものであろう。
 この反歌は、金銀珠宝も所詮《しょせん》、子の宝には及ばないというので、長歌の実事を詠んだのに対して、この方は綜括《そうかつ》的に詠んだ。そして憶良は仏典にも明るかったから、自然にその影響がこの歌にも出たものであろう。「なにせむに」は、「何かせむ」の意である。憶良の語句の仏典から来たのは、「古日《ふるひ》を恋ふる歌」(巻五・九〇四)にも、「世の人の貴み願ふ、七種《ななくさ》の宝も我は、なにせむに、我が間《なか》の生れいでたる、白玉の吾が子|古日《ふるひ》は」とあるのを見ても分かる。七宝は、金・銀・瑠璃《るり》・※[#「石+車」、第3水準1−89−5]※[#「石+渠」、第3水準1−89−12]《しゃこ》・碼碯《めのう》・珊瑚《さんご》・琥珀《こはく》または、金・銀・琉璃《るり》・頗※[#「犂」の「牛」に代えて「木」、第4水準2−14−90]《はり》・車渠《しゃこ》・瑪瑙・金剛《こんごう》である。そういう仏典の新しい語感を持った言葉を以て、一首を為立《した》て、堅苦しい程に緊密な声調を以て終始しているのに、此一首の佳い点があるだろう。けれども長歌に比してこの反歌の劣るのは、後代の今となって見れば言語の輪廓として受取られる弱点が存じているためである。併し、旅人の讃《ホムル》[#レ]酒[#(ヲ)]歌にせよ、この歌にせ
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