「筑前国守山上憶良上」をば、憶良自身の妻の死を悼んだ歌を旅人に示したものとして、「大伴卿も同じ思ひに歎かるゝころなれば、かの卿に見せられけるなるべし」(攷證)というのであるが、ただそれだけでは証拠不充分であるし、憶良の妻が筑紫で歿したという記録が無いのだから、これを以て直ぐ憶良の妻の死を悼んだのだと断定するわけにも行かぬのである。併し全体が、自分の妻を哀悼するような口吻であるから、茲に両説が対立することとなるのであるが、鑑賞者は、憶良が此歌を作っても、旅人の妻の死を旅人が歎いているという心持に仮りになって味えば面倒ではないのである。
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妹《いも》が見《み》し楝《あふち》の花《はな》は散《ち》りぬべし我《わ》が泣《な》く涙《なみだ》いまだ干《ひ》なくに 〔巻五・七九八〕 山上憶良
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前の歌の続《つづき》で、憶良が旅人の心に同化して旅人の妻を悼んだものである。楝《おうち》は即ち栴檀《せんだん》で、初夏のころ薄紫の花が咲く。
一首の意は、妻の死を悲しんで、わが涙の未だ乾かぬうちに、妻が生前喜んで見た庭前の楝《おうち》の花も散ることであろう、というので、逝《ゆ》く歳月の迅《はや》きを歎じ、亡妻をおもう情の切なことを懐《おも》うのである。
この楝の花は、太宰府の家にある楝であろう。そして、作者の憶良も太宰府にいて、旅人の心になって詠んだからこういう表現となるのである。この歌は、意味もとおり言葉も素直に運ばれて、調べも感動相応の重みを持っているが、飛鳥・藤原あたりの歌調に比して、切実の響を伝え得ないのはなぜであるか。恐らく憶良は伝統的な日本語の響に真に合体し得なかったのではあるまいか。後に発達した第三句切が既にここに実行せられているのを見ても分かるし、「朝日照る佐太《さだ》の岡辺に群れゐつつ吾が哭《な》く涙止む時もなし」(巻二・一七七)、「御立《みたち》せし島を見るとき行潦《にはたづみ》ながるる涙止めぞかねつる」(巻二・一七八)ぐらいに行くのが寧ろ歌調としての本格であるのに、此歌は其処までも行っていない。この歌は、従来万葉集中の秀歌として評価せられたが、それは、分かり易い、無理のない、感情の自然を保つ、挽歌らしいというような点があるためで、実は此歌よりも優れた挽歌が幾つも前行しているのである。
天平十一年夏六月、大伴家持は亡妾を悲しんで、「妹が見し屋前《やど》に花咲き時は経ぬわが泣く涙いまだ干なくに」(巻三・四六九)という歌を作っている。これは明かに憶良の模倣であるから、家持もまた憶良の此一首を尊敬していたということが分かるのである。恐らく家持は此歌のいいところを味い得たのであっただろう。(もっとも家持は此時人麿の歌をも多く模倣して居る。)
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大野山《おほぬやま》霧《きり》たちわたる我《わ》が嘆《なげ》く息嘯《おきそ》の風《かぜ》に霧《きり》たちわたる 〔巻五・七九九〕 山上憶良
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此歌も前の続である。「大野山」は和名鈔《わみょうしょう》に、「筑前国御笠郡大野」とある、その地の山で、太宰府に近い。「おきそ」は、宣長は、息嘯《おきうそ》の略とし、神代紀に嘯之時《ウソブクトキニ》迅風忽起とあるのを証とした。
一首の意は、今、大野山を見ると霧が立っている、これは妻を歎く自分の長大息の、風の如く強く長い息のために、さ霧となって立っているのだろう、というので、神代紀に、「吹きうつる気噴《いぶき》のさ霧に」、万葉に、「君がゆく海べの屋戸に霧たたば吾《あ》が立ち嘆く息《いき》と知りませ」(巻十五・三五八〇)、「わが故に妹歎くらし風早《かざはや》の浦の奥《おき》べに霧棚引けり」(同・三六一五)、「沖つ風いたく吹きせば我妹子が嘆きの霧に飽かましものを」(同・三六一六)等とあるのと同じ技法である。ただ万葉の此等の歌は憶良のこの歌よりも後であろうか。
此一首も、「霧たちわたる」を繰返したりして強く云っていて、線も太く、能働的であるが、それでもやはり人麿の歌の声調ほどの顫動が無い。例えば前出の、「ともしびの明石大門に入らむ日や榜ぎわかれなむ家のあたり見ず」(巻三・二五四)あたりと比較すればその差別もよく分かるのであるが、憶良は真面目になって骨折っているので、一首は質実にして軽薄でないのである。なお、天平七年、大伴坂上郎女が尼|理願《りがん》を悲しんだ歌に、「嘆きつつ吾が泣く涙、有間山雲居棚引き、雨に零《ふ》りきや」(巻三・四六〇)という句があり、同じような手法である。
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ひさかたの天道《あまぢ》は遠《とほ》しなほなほに家《いへ》に帰《かへ》りて業《
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