ならぬだろう。その証拠には、此処に引いた用例は皆旅人以後で、旅人の口吻の模倣といってよいのである。それから、結句の、「悲しかりけり」であるが、これは漢文なら、「独り断腸の泣《なみだ》を流す」というところを、日本語では、「悲しかりけり」というのである。これを以て、日本語の貧弱を云々してはならぬ。短詩形としての短歌の妙味もむずかしい点も此処に存するものだからである。大体以上の如くであるが、後代の吾等から見れば、此歌を以て満足だというわけには行かぬ。それはなぜかというに、思想的抒情詩はむずかしいもので、誰が作っても旅人程度を出で難いものだからである。併しそれを正面から実行した点につき、この方面の作歌に一つの基礎をなした点につき、旅人に満腔《まんこう》の尊敬を払うて茲《ここ》に一首を選んだのであった。
 旅人の妻、大伴郎女の死した時、旅人は、「愛《うつく》しき人《ひと》の纏《ま》きてし敷妙《しきたへ》の吾が手枕《たまくら》を纏《ま》く人あらめや」(巻三・四三八)等三首を作っているが、皆この歌程大観的ではない。序にいうが、巻三(四四二)に、膳部王《かしわでべのおおきみ》を悲しんだ歌に、「世の中は空しきものとあらむとぞこの照る月は満闕《みちかけ》しける」という作者不詳の歌がある。王の薨去は天平元年だから、やはり旅人の歌の方が早い。

           ○

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悔《くや》しかも斯《か》く知《し》らませばあをによし国内《くぬち》ことごと見《み》せましものを 〔巻五・七九七〕 山上憶良
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 大伴旅人の妻が死んだ時、山上憶良《やまのうえのおくら》が、「日本挽歌」(長歌一首反歌五首)を作って、「神亀五年七月二十一日、筑前国守山上憶良上」として旅人に贈った。即ちこの長歌及び反歌は、旅人の心持になって、恰《あたか》も自分の妻を悼《いた》むような心境になって、旅人の妻の死を悼んだものである。それだから、この「山上憶良上」云々という注が無ければ、無論憶良が自分の妻の死を悼んだものとして受取り得る性質のものである。因《よ》って鑑賞者は、この歌の作者は憶良でも、旅人の妻即ち大伴郎女《おおとものいらつめ》の死を念中に持って味うことが必要なのである。
 一首の意は、こうして妻に別れねばならぬのが分かっていたら、筑紫の国々を残るくまなく見物させてやるのであったのに、今となって残念でならぬ、というのである。
 この歌の「知る」は前の歌の「知る」と稍違って、知れている、分かっている程の意である。次に、「あをによし」という語は普通、「奈良」に懸る枕詞であるのに、憶良は「国内」に続けている。そんなら、「国内」は大和・奈良あたりの意味かというに、そう取っては具合が悪い。やはり筑紫の国々と取らねばならぬところである。そこで種々説が出たのであるが、憶良は必ずしも伝統的な日本語を使わぬ事があるので、或は、「あをによし」の意味をただ山川の美しいというぐらいの意に取ったものと考えられる。(憶良は、「あをによし奈良の都に」(巻五・八〇八)とも使っている。)次に、この歌は、初句から、「くやしかも」と置いているのは、万葉集としては珍らしく、寧ろ新古今集時代の手法であるが、憶良は平然としてこういう手法を実行している。もっともこの手法は、「苦しくも降り来る雨か」などという主観句の短いものと看做《みな》せば説明のつかぬことはない。
 この歌を味うと、内容に質実的なところがあるが、声調が訥々《とつとつ》としていて、沁《し》み透《とお》るものが尠《すくな》いので、つまりは常識の発達したぐらいな感情として伝わって来る。併し声調が流暢《りゅうちょう》過ぎぬため、却って軽佻《けいちょう》でなく、質朴の感を起こさせるのである。家持の歌に、「かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを」(巻十七・三九五九)というのがある。これは弟の書持《ふみもち》の死を悼《いた》んだものであるが、この憶良の歌から影響を受けているところを見ると、大伴家に伝わった此等の歌をも読味ったことが分かる。
 この日本挽歌一首(長歌反歌)は、憶良が旅人の心になって、旅人の心に同感して、旅人の妻の死を哀悼《あいとう》したという説に従ったが、これは、憶良の妻の死を、憶良が直接悼んでいるのだと解釈する説があり、岸本|由豆流《ゆずる》の万葉集|攷證《こうしょう》にも、「或人の説に、こは憶良の妻身まかりしにはあるべからず、こは大伴卿の心になりて、憶良の作られけるならんといへれど、さる証もなければとりがたし」と云っている程である。(なお、大柳直次氏の同説がある。)併し、歌の中の妻の死んだのも夏であり、その他の種々の関係が、旅人の妻の死を悼んだ歌として解釈する方が穏《おだや》かのように思える。
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