つかまえた藻の中にいた大鮒だが、おまえに持って来た、というぐらいの意で、「藻臥」は藻の中に住む、藻の中に潜むの意。「束鮒」は一束《ひとつか》、即ち一握《ひとにぎ》り(二寸程)ぐらいの長さをいう。この結句の造語がおもしろいので選んで置いた。巻十四(三四九七)の、「河上の根白高萱《ねじろたかがや》」などと同じ造語法である。

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月読《つくよみ》の光《ひかり》に来《き》ませあしひきの山《やま》を隔《へだ》てて遠《とほ》からなくに 〔巻四・六七〇〕 湯原王
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 湯原王《ゆはらのおおきみ》の歌だが、娘子《おとめ》が湯原王に贈った歌だとする説(古義)のあるのは、この歌に女性らしいところがあるためであろう。併しこれはもっと楽《らく》に解して、女にむかってやさしく云ってやったともいうことが出来るだろう。また程近い処であるから女に促してやったということも云い得るのである。和《こた》うる歌に、「月読の光は清く照らせれどまどへる心堪へず念ほゆ」(巻四・六七一)とあるのは、女の語気としてかまわぬであろう。

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夕闇《ゆふやみ》は路《みち》たづたづし月《つき》待《ま》ちて行《ゆ》かせ吾背子《わがせこ》その間《ま》にも見《み》む 〔巻四・七〇九〕 大宅女
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 豊前国の娘子|大宅女《おおやけめ》の歌である。この娘子の歌は今一首万葉(巻六・九八四)にある。「道たづたづし」は、不安心だという意になる。「その間にも見む」は、甘くて女らしい句である。此頃になると、感情のあらわし方も細《こまか》く、姿態《しな》も濃《こま》やかになっていたものであろう。良寛の歌に「月読の光を待ちて帰りませ山路は栗のいがの多きに」とあるのは、此辺の歌の影響だが、良寛は主に略解《りゃくげ》で万葉を勉強し、むずかしくない、楽《らく》なものから入っていたものと見える。

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ひさかたの雨《あめ》の降《ふ》る日《ひ》をただ独《ひと》り山辺《やまべ》に居《を》れば欝《いぶ》せかりけり 〔巻四・七六九〕 大伴家持
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 大伴家持が紀女郎《きのいらつめ》に贈ったもので、家持はいまだ整わない新都の久邇《くに》京にいて、平城《なら》にいた女郎に贈ったものである。「今しらす久邇《くに》の京《みやこ》に妹《いも》に逢はず久しくなりぬ行きてはや見な」(巻四・七六八)というのもある。この歌は、もっと上代の歌のように、蒼古《そうこ》というわけには行かぬが、歌調が伸々《のびのび》として極めて順直なものである。家持の歌の優れた一面を代表する一つであろうか。
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巻第五

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世《よ》の中《なか》は空《むな》しきものと知《し》る時《とき》しいよよますます悲《かな》しかりけり 〔巻五・七九三〕 大伴旅人
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 大伴旅人《おおとものたびと》は、太宰府に於て、妻|大伴郎女《おおとものいらつめ》を亡くした(神亀五年)。その時京師から弔問が来たのに報《こた》えた歌である。なおこの歌には、「禍故|重畳《ちようでふ》し、凶問|累《しきり》に集る。永く崩心の悲みを懐《いだ》き、独り断腸の泣《なみだ》を流す。但し両君の大助に依りて、傾命|纔《わづか》に継ぐ耳《のみ》。筆言を尽さず、古今の歎く所なり」という詞書が附いている。傾命は老齢のこと。両君は審《つまびら》かでない。
 一首の意は、世の中が皆空・無常のものだということを、現実に知ったので、今迄よりもますます悲しい、というのである。
「知る時し」は、知る時に、知った時にという事であるが、今迄は経文により、説教により、万事空寂無常のことは聞及んでいたが、今|現《げん》に、自分の身に直接に、眼《ま》のあたりに、今の言葉なら、体験したという程のことを、「知る」と云ったのである。同じ用例には、「うつせみの世は常無《つねな》しと知るものを」(巻三・四六五。家持)、「世の中を常無きものと今ぞ知る」(巻六・一〇四五。不詳)、「世の中の常無きことは知るらむを」(巻十九・四二一六。家持)等がある。そこで「いよよますます」という語に続くのである。この歌には、仏教が入っているので、「空しきものと知る」というだけでも、当時にあっては、深い道理と情感を伴う語感を持っていただろう。一口にいえば思想的にも新しく且つ深かったものだろう。それが年月によって繰返されているうち、その新鮮の色があせつつ来たのであるが、旅人のこの歌頃までは、いまだ諳記《あんき》してものを云っているようなところのないのを鑑賞者は見免《みのが》しては
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