だから此疑問は随分古いものだということが分かるが、その精しい考証は現在の私には不可能である。攷證では、「この御製は、女をおぼしめして詠せ給ふにて」と明かにしている。
 一首の意は、山の端をば味鴨《あじがも》が群れ鳴いて、騒ぎ飛行くように、多くの人が通り行くけれども、私は寂しゅうございます、その人々はあなたではありませぬから、というので、やはり女性の歌として解釈するのである。そんなら作者は後岳本天皇即ち斉明天皇にましますかというに、それも私にはよく分からぬ。ただ岳本天皇御製とあるのだから、天皇がこういう恋愛情調をたたえた民謡風な抒情詩を御作りになったと解釈申上げてもよく、或は岳本天皇時代のこの抒情詩が、天皇御製歌として伝誦せられ来ったとも解釈することが出来るのである。いずれにしても歌は女性の口吻《こうふん》であること既に前賢が注意したごとくである。次に、この歌の、「あぢ群さわぎ行くなれど」の句をば、実際あじ鴨の群が飛んでゆくのを御覧になったのか、それとも譬喩《ひゆ》で、あじ鴨が騒いで飛行くように人が群れ騒ぎ行くというのか、先輩の解釈にも二とおりある。けれども私は「山の端にあぢ群さわぎ」は、「行く」に続く意味のある序詞だと解した。そして誰が「行く」のかといえば、「人」が行くのであって、これは長歌の方で、「人さはに国には満ちて、あぢ群の去来《ゆきき》は行けど、吾が恋ふる君にしあらねば」とあるのに拠っても分かる。即ち、あじ群の騒ぎ行くように人等が行くけれどもと解釈したのであって、その方が寧ろ古調だとおもうのである。
 私はこの御製を、素朴な抒情詩の優れたものとして選んだ。特に、「あぢむら騒ぎ」という句に心を牽《ひ》かれたのであった。こういう実景を見つつ、その写象によって序詞を作ったのを感心したためであった。もっとも、此用法は、「奥べには鴨妻|喚《よ》ばひ、辺《へ》つべに味《あぢ》むら騒ぎ」(巻三・二五七)、「なぎさには味むら騒ぎ」(巻十七・三九九一)の如く実際味むらの居る処として表わしたものもあり、「あぢむらの騒ぎ競《きほ》ひて浜に出でて」(巻二十・四三六〇)のごとく、実際あじ群の居るのでなく、枕詞に使った処もあるが、いずれにしても古風な気持の好い用い方である。ことに、短歌の方で、単に「行くなれど」と云って、長歌の方の、「人さはに」という主格をも含めた用法にも感心したのであった。この歌に比べると、「秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れども不楽《さぶ》し君にしあらねば」(巻十・二二九〇)、「み冬つぎ春は来れど梅の花君にしあらねば折る人もなし」(巻十七・三九〇一)などは、調子が弱くなって、もはや弛《たる》んでいる。また、「うち日さす宮道《みやぢ》を人は満ちゆけど吾が念《おも》ふ公《きみ》はただ一人のみ」(巻十一・二三八二)という類似の歌もあるが、この方はもっと分かりよい。
 この次に、「淡海路《あふみぢ》の鳥籠《とこ》の山なるいさや川|日《け》の此頃《このごろ》は恋ひつつもあらむ」(巻四・四八七)という歌があり、上半は序詞だが、やはり古調で佳い歌である。そしてこの方は男性の歌のような語気だから、或はこれが御製で、「山の端に」の歌は天皇にさしあげた女性の歌ででもあろうか。
 以上、「あぢむら騒ぎ」までを序詞として解釈したが、「夏麻《なつそ》引く海上潟《うなかみがた》の沖つ洲に鳥はすだけど君は音《おと》もせず」(巻七・一一七六)、「吾が門の榎《え》の実《み》もり喫《は》む百千鳥千鳥は来れど君ぞ来まさぬ」(巻十六・三八七二)というのがあって、これは実際鳥の群集する趣だから、これを標準とせば、「あぢむら騒ぎ」も実景としてもいいかも知れぬが、この巻七の歌も巻十六の歌もよく味うと、やはり海鳥を写象として、その聯想によって「すだけど」、或は「来れど」と云っているのだということが分かり、属目光景では無いのである。
 この御製を、女性らしい御語気だと云ったが、代匠記では男の歌とし、毛詩|鄭風《ていふう》の、出[#(バ)][#二]其東門[#(ヲ)][#一]、有[#レ]女如[#(シ)][#レ]雲、雖[#二]則如[#(シト)][#一レ]雲、匪[#(ズ)][#二]我思[#(ノ)]存[#(スルニ)][#一]を引いている。即ち「君」を女と解している。攷證でも、「この御製は、女をおぼしめして詠せ給ふにて」、「吾は君とは違ひて、誘《サソ》ふ人もあらざれば、いとさびしとのたまふにて、君は定めて誘ふ人もあまたありぬべしとの御心を、味村の飛ゆくさまをみそなはして、つゞけ給へる也」と云っている。どちらが本当か、後賢の判断を俟《ま》っている。

           ○

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君《きみ》待《ま》つと吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》れば吾《わ》が屋戸《やど》の簾《すだれ
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