、「吾妹子」と、「見し人」とは同一人である。「人」は後に、「根はふ室の木見し人」、「人も無き空しき家」といってある如く、妻・吾妹子の意味に「人」を用いている。旅人の歌は明快で、顫動《せんどう》が足りないともおもうが、「見し人ぞ亡き」に詠歎が籠っていて感深い歌である。

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妹《いも》と来《こ》し敏馬《みぬめ》の埼《さき》を還《かへ》るさに独《ひとり》して見《み》れば涙《なみだ》ぐましも 〔巻三・四四九〕 大伴旅人
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 前の歌と同様、旅人が帰京途上、摂津の敏馬海岸を過ぎて詠んだものである。「涙ぐましも」という句は、万葉には此一首のみであるが、古事記(日本紀)仁徳巻に、「やましろの筒城《つつき》の宮にもの申すあが背《せ》の君《きみ》は(吾兄《わがせ》を見れば)泪《なみだ》ぐましも」の一首がある。この句は、この時代に出来た句だから、大体の調和は古代語にある。そこで、近頃、散文なり普通会話なりに多く用いる、「涙ぐましい」という語は不調和である。
 この歌は、余り苦心して作っていないようだが、声調にこまかいゆらぎがあって、奥から滲出で来る悲哀はそれに本づいている。旅人の歌は、あまり早く走り過ぎる欠点があったが、この歌にはそれが割合に少く、そういう点でもこの歌は旅人作中の佳作ということが出来るであろう。旅人は、讃酒歌《さけをほむるうた》のような思想的な歌をも自在に作るが、こういう沁々《しみじみ》としたものをも作る力量を持っていた。なおこの時、「往くさには二人吾が見しこの埼をひとり過ぐれば心悲しも」(巻三・四五〇)という歌をも作った。やはり哀《あわれ》深い歌である。

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妹《いも》として二人《ふたり》作《つく》りし吾《わ》が山斎《しま》は木高《こだか》く繁《しげ》くなりにけるかも 〔巻三・四五二〕 大伴旅人
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 旅人が家に帰って来て、妻のいない家を寂しみ、太宰府で亡くした妻を悲しむ歌で、このほかに、「人もなき空《むな》しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり」(巻三・四五一)、「吾妹子《わぎもこ》がうゑし梅の木見る毎に心むせつつ涕《なみだ》し流る」(同・四五三)の二首を作っているが、共にあわれ深い。
 此一首の意は、亡くなった妻と一しょになって、二人で作った庭は、こんなにも木が大きくなり、繁茂するようになったというので、単純明快のうちに尽きぬ感慨がこもっている。結句の、「なりにけるかも」というのは、「秋萩の枝もとををに露霜おき寒くも時はなりにけるかも」(巻十・二一七〇)、「竹敷《たかしき》のうへかた山は紅《くれなゐ》の八入《やしほ》の色になりにけるかも」(巻十五・三七〇三)、「石ばしる垂水《たるみ》のうへのさ蕨《わらび》の萌《も》えいづる春になりにけるかも」(巻八・一四一八)等の如くに成功している。同じく旅人が、「昔見し象《きさ》の小河を今見ればいよいよ清《さや》けくなりにけるかも」(巻三・三一六)という歌を作っていて効果をおさめているのは、旅人の歌調が概《おおむ》ね直線的で太いからでもあろうか。
 
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あしひきの山《やま》さへ光《ひか》り咲《さ》く花《はな》の散《ち》りぬるごとき吾《わ》が大《おほ》きみかも 〔巻三・四七七〕 大伴家持
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 天平十六年二月、安積皇子《あさかのみこ》(聖武天皇皇子)薨じた時(御年十七)、内舎人《うどねり》であった大伴家持の作ったものである。此時家持は長短歌六首作って居る。一首の意は、満山の光るまでに咲き盛っていた花が一時に散ったごとく、皇子は逝《ゆ》きたもうた、というのである。家持の内舎人になったのは天平十二年頃らしく、此作は家持の初期のものに属するであろうが、こころ謹しみ、骨折って作っているのでなかなか立派な歌である。家持は、父の旅人があのような歌人であり、夙《はや》くから人麿・赤人・憶良等の作を集めて勉強したのだから、此等六首を作る頃には、既に大家の風格を具《そな》えているのである。
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巻第四

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山《やま》の端《は》に味鳬《あぢ》群騒《むらさわ》ぎ行《ゆ》くなれど吾《われ》はさぶしゑ君《きみ》にしあらねば 〔巻四・四八六〕 舒明天皇
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 岳本天皇《おかもとのすめらみこと》御製一首並短歌とある、その短歌である。岳本天皇は即ち舒明天皇を申奉るのであるが、御製歌には女性らしいところがあるので、左注には後岳本天皇《のちのおかもとのすめらみこと》即ち斉明《さいめい》天皇の御製ではなかろうかと疑問を附している。それ
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