の赤兄である。

           ○

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豊国《とよくに》の鏡《かがみ》の山《やま》の石戸《いはと》立《た》て隠《こも》りにけらし待《ま》てど来《き》まさぬ 〔巻三・四一八〕 手持女王
石戸《いはと》破《わ》る手力《たぢから》もがも手弱《たよわ》き女《をみな》にしあれば術《すべ》の知《し》らなく 〔巻三・四一九〕 同
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 河内王《かふちのおおきみ》を豊前国鏡山(田川郡香春町附近勾金村字鏡山)に葬った時、手持女王《たもちのおおきみ》の詠まれた三首中の二首である。河内王は持統三年に太宰帥《だざいのそち》となった方で、持統天皇八年四月五日|賻物《はふりもの》を賜った記事が見えるから、その頃卒せられたものと推定せられる(土屋氏)。手持女王の伝は不明である。「石戸」は石棺を安置する石槨《せっかく》の入口を、石を以て塞ぐので石戸というのである。これ等の歌も追悼するのに葬った御墓のことを云っている。第一の歌では、「待てど来まさぬ」の句に中心感情があり、同じ句は万葉に幾つかあるけれども、この句はやはりこの歌に専属のものだという気味がするのである。第二の歌の、「石戸わる手力もがも」は、その時の心その儘であろう。二つとも女性としての云い方、その語気が自然に出ていて挽歌としての一特色をなしている。共に悲しみの深い歌で、第二の歌の誇張らしいのも、女性の心さながらのものだからであろう。

           ○

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八雲《やくも》さす出雲《いづも》の子等《こら》が黒髪《くろかみ》は吉野《よしぬ》の川《かは》の奥《おき》になづさふ 〔巻三・四三〇〕 柿本人麿
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 出雲娘子《いずものおとめ》が吉野川で溺死した。それを吉野で火葬に附した時、柿本人麿の歌った歌二首の一つで、もう一つのは、「山の際《ま》ゆ出雲の児等は霧なれや吉野の山の嶺に棚引く」(巻三・四二九)というので、当時大和では未だ珍しかった火葬の烟《けむり》の事を歌っている。この歌の、「八雲さす」は「出雲」へかかる枕詞。「子等」の「等」は複数を示すのでなく、親しみを出すために附けた。生前美しかった娘子の黒髪が吉野川の深い水に漬《つか》ってただよう趣で、人麿がそれを見たか人言に聞きかしたものであろう。いずれにしてもその事柄を中心として一首を纏《まと》めている。そして人麿はどんな対象に逢着しても熱心に真心を籠めて作歌し、自分のために作っても依頼されて作っても、そういうことは殆ど一如にして実行した如くである。

           ○

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われも見《み》つ人《ひと》にも告げむ葛飾《かつしか》の真間《まま》の手児名《てこな》が奥津城処《おくつきどころ》 〔巻三・四二三〕 山部赤人
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 山部赤人が下総葛飾の真間娘子《ままのおとめ》の墓を見て詠んだ長歌の反歌である。手児名《てこな》は処女《おとめ》の義だといわれている。「手児」(巻十四・三三九八・三四八五)の如く、親の手児という意で、それに親しみの「な」の添《そ》わったものと云われている。真間に美しい処女《おとめ》がいて、多くの男から求婚されたため、入水した伝説をいうのである。伝説地に来ったという旅情のみでなく、評判の伝説娘子に赤人が深い同情を持って詠んでいる。併し徒《いたず》らに激しい感動語を以てせずに、淡々といい放って赤人一流の感懐を表現し了せている。それが次にある、「葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻苅りけむ手児名しおもほゆ」(巻三・四三三)の如きになると、余り淡々とし過ぎているが、「われも見つ人にも告げむ」という簡潔な表現になると赤人の真価があらわれて来る。後になって家持が、「万代の語《かたら》ひ草と、未だ見ぬ人にも告げむ」(巻十七・四〇〇〇)云々と云って、この句を学んで居る。赤人は富士山をも詠んだこと既に云った如くだから、赤人は東国まで旅したことが分かる。

           ○

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吾妹子《わぎもこ》が見《み》し鞆《とも》の浦《うら》の室《むろ》の木《き》は常世《とこよ》にあれど見《み》し人《ひと》ぞ亡《な》き 〔巻三・四四六〕 大伴旅人
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 太宰帥《だざいのそち》大伴旅人が、天平二年冬十二月、大納言になったので帰京途上、備後《びんご》鞆の浦を過ぎて詠んだ三首中の一首である。「室の木」は松杉科の常緑喬木、杜松(榁)であろう。当時鞆の浦には榁《むろ》の大樹があって人目を引いたものと見える。一首の意は、太宰府に赴任する時には、妻も一しょに見た鞆の浦の室《むろ》の木《き》は、今も少しも変りはないが、このたび帰京しようとして此処を通る時には妻はもう此世にいない、というので
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