》うごかし秋《あき》の風《かぜ》吹《ふ》く 〔巻四・四八八〕 額田王
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 額田王《ぬかだのおおきみ》が近江天皇(天智天皇)をお慕いもうして詠まれたものである。王ははじめ大海人皇子《おおあまのみこ》(天武天皇)の許《もと》に行かれて十市皇女《とおちのひめみこ》を生み、のち天智天皇に寵《ちょう》せられたことは既に云ったが、これは近江に行ってから詠まれたものであろう。
 一首の意は、あなたをお待申して、慕わしく居りますと、私の家の簾を動かして秋の風がおとずれてまいります、というのである。
 この歌は、当りまえのことを淡々といっているようであるが、こまやかな情味の籠った不思議な歌である。額田王は才気もすぐれていたが情感の豊かな女性であっただろう。そこで知らず識らずこういう歌が出来るので、この歌の如きは王の歌の中にあっても才鋒《さいほう》が目立たずして特に優れたものの一つである。この歌でただ、「簾動かし秋の風吹く」とだけ云ってあるが、女性としての音声さえ聞こえ来るように感ぜられるのは、ただ私の気のせいばかりでなく、つまり、結句の「秋の風ふく」の中に、既に女性らしい愬《うった》えを聞くことが出来るといい得るのである。また、風の吹いて来るのは恋人の来る前兆だという一種の信仰のようなものがあったと説く説(古義)もあるがどういうものであるか私には能《よ》く分からない。ただそうすれば却って歌柄《うたがら》が小さくなってしまうようだから、此処は素直に文字どおりにただ天皇をお慕い申す恋歌として受取った方が好いようである。
 この歌の次に、鏡王女《かがみのおおきみ》の作った、「風をだに恋ふるはともし風をだに来むとし待たば何か歎かむ」(巻四・四八九)という歌が載っている。王女は額田王の御姉に当る人で、はじめ天智天皇に寵せられ、のち藤原|鎌足《かまたり》の正室になった人だから、恐らく此時近江の京に住んでいたのであろう。そして、額田王の此歌を聞いて、額田王にやったものであろう。この歌にも広い意味の贈答歌の味いがあり、姉妹のあいだの情味がこもっている。併し万葉集には、妹に和《こた》えた歌とは云っていない。

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今更《いまさら》に何《なに》をか念《おも》はむうち靡《なび》きこころは君《きみ》に寄《よ》りにしものを 〔巻四・五〇五〕 安倍女郎
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 安倍女郎《あべのいらつめ》(伝不詳)の作った二首中の一つである。女性の声の直接伝わり来るような特色ある歌として選んだが、そうして見ると、素直でなかなか佳いところがある。前に既に「君に寄りななこちたかりとも」(巻二・一一四)の歌を引いたが、この歌はもっと分かり易くなって来て居る。
 なお、この歌の次に「吾背子は物な念《おも》ほし事しあらば火にも水にも吾無けなくに」(巻四・五〇六)という歌があって、やはり同一作者だが、女性の情熱を云っている。併しこれも女性の語気として受取る方がよく、此時代になると、感情も一般化して分かりよくなっている。寧ろ、「事しあらば小泊瀬山《をはつせやま》の石城《いはき》にも籠《こも》らば共にな思ひ吾が背《せ》」(巻十六・三八〇六)の方が、古い味いがあるように思える。巻十六の歌は後に選んで置いた。

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大原《おほはら》のこの市柴《いつしば》の何時《いつ》しかと吾《わ》が念《も》ふ妹《いも》に今夜《こよひ》逢《あ》へるかも 〔巻四・五一三〕 志貴皇子
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 志貴皇子の御歌で「市柴《いつしば》」は巻八(一六四三)に「この五柴《いつしば》に」とあるのと同じく、繁った柴のことだといわれている。「いつしかと」に続けた序詞だが、実際から来ている序詞である。「大原」は高市郡小原の地なることは既に云った。この歌で心を牽《ひ》いたのは、「今夜逢へるかも[#「今夜逢へるかも」に白丸傍点]」という句にあったのだが、この句は、巻十(二〇四九)に、「天漢《あまのがは》川門《かはと》にをりて年月を恋ひ来し君に今夜《こよひ》逢へるかも」というのがある。
 なお、この巻(五二四)に、「蒸《むし》ぶすまなごやが下に臥せれども妹とし寝《ね》ねば肌《はだ》し寒しも」という藤原麻呂の歌もあり、覚官的のものだが、皇子の御歌の方が感深いようである。此等の歌は取立てて秀歌という程のものでは無いが、ついでを以て味うの便となした。

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庭《には》に立《た》つ麻手《あさて》刈《かり》り干《ほ》ししき慕《しぬ》ぶ東女《あづまをみな》を忘《わす》れたまふな 〔巻四・五二一〕 常陸娘子
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 藤原|宇合《うまかい》(藤原不
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