と御散歩ぐらいに受取れるし、雷岳は低い丘陵であるから、この歌をば事々しい誇張だとし、或は、「歌の興」に過ぎぬと軽く見る傾向もあり、或は支那文学の影響で腕に任せて作ったのだと評する人もあるのだが、この一首の荘重な歌調は、そういう手軽な心境では決して成就し得るものでないことを知らねばならない。抒情詩としての歌の声調は、人を欺くことの出来ぬものである、争われぬものであるということを、歌を作るものは心に慎《つつし》み、歌を味うものは心を引締めて、覚悟すべきものである。現在でも雷岳の上に立てば、三山をこめた大和平野を一望のもとに眼界に入れることが出来る。人暦は遂に自らを欺かず人を欺かぬ歌人であったということを、吾等もようやくにして知るに近いのであるが、賀茂真淵此歌を評して、「岳の名によりてただに天皇のはかりがたき御いきほひを申せりけるさまはただ此人のはじめてするわざなり」(新採百首解)と云ったのは、真淵は人麿を理会し得たものの如くである。結句の訓、スルカモ、セスカモ等があるが、セルカモに従った。此は荒木田|久老《ひさおい》(真淵門人)の訓である。
 この歌、或本には忍壁皇子《おさかべのみこ》に献ったものとして、「大君は神にしませば雲隠る雷山《いかづちやま》に宮敷《みやし》きいます」となっている。なお「大君は神にしませば赤駒のはらばふ田井《たゐ》を京師《みやこ》となしつ」(巻十九・四二六〇)、「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼《みぬま》を皇都《みやこ》となしつ」(同・四二六一)、「大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海をなすかも」(巻三・二四一)等の参考歌がある。
 右のうち巻十九(四二六〇)の、「赤駒のはらばふ田井」の歌は、壬申乱《じんしんのらん》平定以後に、大将軍贈右大臣大伴卿の作である。この大将軍は即ち大伴御行《おおとものみゆき》で大伴安麿の兄に当り、高市大卿ともいい、大宝元年に薨じ右大臣を贈られた。壬申乱に天武天皇方の軍を指揮した。此歌は飛鳥の浄見原の京都を讃美したもので、「赤駒のはらばふ」は田の辺に馬の臥《ふ》しているさまである。此歌は即ち人麿の歌よりも前であるし、古調でなかなかいいところがあるので、巻十九で云うのを此処で一言費すことにした。四二六一は異伝で童謡風になっている。四二六〇の歌が人麿の歌より前だとすると、人麿に影響したとも取れるが、この歌をはじめて聞いたのは、天平勝宝四年二月二日だとことわってあるから、その辺の事情は好く分からない。

           ○

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否《いな》といへど強《し》ふる志斐《しひ》のが強《し》ひがたりこの頃《ごろ》聞《き》かずてわれ恋《こ》ひにけり 〔巻三・二三六〕 持統天皇
否《いな》といへど語れ語れと詔《の》らせこそ志斐《しひ》いは奏《まを》せ強語《しひがたり》と詔《の》る 〔巻三・二三七〕 志斐嫗
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 この二つは、持統天皇と志斐嫗《しいのおみな》との御問答歌である。此老女は語部《かたりべ》などの職にいて、記憶もよく話も面白かったものに相違ない。第一の歌は御製で、話はもう沢山だといっても、無理に話して聞かせるお前の話も、このごろ暫く聞かぬので、また聞きたくなった。第二の歌は嫗の和《こた》え奉った歌で、もう御話は止しましょうと申上げても、語れ語れと御仰せになったのでございましょう。それを今無理強いの御話とおっしゃる、それは御無理でございます。二つは諧謔《かいぎゃく》的問答歌であるから、即興的であり機智的でもある。その調子を詞の繰返しなどによって知ることが出来る。しかし、お互の御親密の情がこれだけ自由自在に現われるということは、後代の吾等には寧ろ異といわねばならぬ程である。万葉集の歌は千差万別だが、人麿の切実な歌などのあいだに、こういう種類の歌があるのもなつかしく、尊敬せねばならぬのである。この第一の歌の題詞はただ「天皇」とだけあるが、諸家が皆持統天皇であらせられると考えている。さすれば天皇の歌人としての御力量は、「春過ぎて夏来るらし」の御製等と共に、近臣の助力云々などの想像の、いかに当らぬものだかということを証明するものである。「志斐い」の「い」は語調のための助詞で、「紀の関守い留めなむかも」(巻四・五四五)などと同じい。山田博士は、「このイは主格を示す古代の助詞」だと云っている。

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大宮《おほみや》の内《うち》まで聞《きこ》ゆ網引《あびき》すと網子《あご》ととのふる海人《あま》の呼《よ》び声《ごゑ》 〔巻三・二三八〕 長意吉麻呂
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 長忌寸意吉麻呂《ながのいみきおきまろ》が詔に応《こた》え奉った歌であるが、持統天皇か文武天皇か難波宮(長柄豊崎宮《ながらのとよさきのみ
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