や》。現在の大阪豊崎町)に行幸せられた時の作であろう。
 海岸で網を引上げるために、網引く者どもの人数を揃《そろ》えいろいろ差図手配する海人《あま》のこえが、離宮の境内まで聞こえて来る、という歌である。応詔の歌だから、調べも謹直であるが、ありの儘を詠んでいる。併しありの儘を詠んでいるから、大和の山国から海浜に来た人々の、喜ばしく珍しい心持が自然にあらわれるので、強《し》いて心持を出そうなどと意図しても、そう旨《うま》く行くものでは無い。
 また、この歌は応詔の歌であるが、特に帝徳を讃美したような口吻もなく、離宮に聞こえて来る海人等の声を主にして歌っているのであるが、それでも立派に応詔歌になっているのを見ると、万葉集に散見する献歌の中に、強いて寓意《ぐうい》を云々するのは間違だとさえおもえるのである。例えば、「うち手折《たを》り多武《たむ》の山霧しげみかも細川の瀬に波のさわげる」(巻九・一七〇四)という、舎人皇子《とねりのみこ》に献った歌までに寓意を云々するが如きである。つまり、同じく「詔」でも、属目《しょくもく》の歌を求められる場合が必ずあるだろうとおもうからである。

           ○

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滝《たぎ》の上《うへ》の三船《みふね》の山《やま》に居《ゐ》る雲《くも》の常《つね》にあらむとわが思《も》はなくに 〔巻三・二四二〕 弓削皇子
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 弓削皇子《ゆげのみこ》(天武天皇第六皇子、文武天皇三年薨去)が吉野に遊ばれた時の御歌である。滝《たぎ》は宮滝の東南にその跡が残っている。三船山はその南にある。
 滝の上の三船の山には、あのようにいつも雲がかかって見えるが、自分等はああいう具合に常住ではない。それが悲しい、というので、「居る雲の」は、「常」にかかるのであろう。「常にあらむとわが思はなくに」の句に深い感慨があって、人麿の、「いさよふ波の行方しらずも」などとも一脈相通ずるものがあるのは、当時の人の心にそういう共通な観相的傾向があったとも解釈することが出来る。なお集中、「常にあらぬかも」、「常ならめやも」の句ある歌もあって参考とすべきである。いずれにしても此歌は、景を叙しつつ人間の心に沁み入るものを持って居る。此御歌に対して、春日王《かすがのおおきみ》は、「大君は千歳にまさむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや」(巻三・二四三)と和《こた》えていられる。

           ○

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玉藻《たまも》かる敏馬《みぬめ》を過《す》ぎて夏草《なつくさ》の野島《ぬじま》の埼《さき》に船《ふね》ちかづきぬ 〔巻三・二五〇〕 柿本人麿
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 これは、柿本朝臣人麻呂|※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅《きりょ》歌八首という中の一つである。※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅八首は、純粋の意味の連作でなく、西へ行く趣の歌もあり、東へ帰る趣の歌もある。併し八首とも船の旅であるのは注意していいと思う。敏馬は摂津武庫郡、小野浜から和田岬までの一帯、神戸市の灘区に編入せられている。野島は淡路の津名郡に野島村がある。
 一首の意は、〔玉藻かる〕(枕詞)摂津の敏馬《みぬめ》を通《とお》って、いよいよ船は〔夏草の〕(枕詞)淡路の野島の埼に近づいた、というのである。
 内容は極めて単純で、ただこれだけだが、その単純が好いので、そのため、結句の、「船ちかづきぬ」に特別の重みがついて来ている。一首に枕詞が二つ、地名が二つもあるのだから、普通謂う意味の内容が簡単になるわけである。この歌の、「船近づきぬ」という結句は、客観的で、感慨がこもって居り、驚くべき好い句である。万葉集中では、「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」(巻一・四八)、「風をいたみ奥《おき》つ白浪高からし海人《あま》の釣舟浜に帰りぬ」(巻三・二九四)、「あらたまの年の緒ながく吾が念《も》へる児等に恋ふべき月近づきぬ」(巻十九・四二四四)等の例があり、その結句は、文法的には客観的であって、感慨のこもっているものである。第三句、「夏草の」を現実の景と解する説もあるが、これは、「夏草の靡き寝《ぬ》」の如きから、「寝《ぬ》」と「野《ぬ》」との同音によって枕詞となったと解釈した。またこう解すれば、「奴流」(寝)は「奴島」(巻三・二四九)のヌと同じく、時には「努」(野)とも通用したことが分かるし、阿之比奇能夜麻古要奴由伎《アシヒキノヤマコエヌユキ》(巻十七・三九七八)の、「奴由伎」は「野ゆき」であるから、「奴」、「努」の通用した実例である。即ち甲類乙類の仮名通用の例でもあり、野の中間音でヌと発音した積極的な例ともなり、ノと書くことの間違だというこ
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