くない歌であるが、不思議にも身に沁みる歌である。どういう場合に人麿がこの采女の死に逢ったのか、或は依頼されて作ったものか、そういうことを種々問題にし得る歌だが、人麿は此時、「あまかぞふ大津《おほつ》の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔《くや》しき」(巻二・二一九)という歌をも作っている。これは、生前縁があって一たび会ったことがあるが、その時にはただ何気なく過した。それが今となっては残念である、というので、これで見ると人麿は依頼されて作ったのでなく、采女は美女で名高かった者のようでもあり、人麿は自ら感激して作っていることが分かる。
○
[#ここから5字下げ]
妻《つま》もあらば採《つ》みてたげまし佐美《さみ》の山野《やまぬ》の上《へ》の宇波疑《うはぎ》過《す》ぎにけらずや 〔巻二・二二一〕 柿本人麿
[#ここで字下げ終わり]
人麿が讃岐《さぬき》狭岑《さみね》島で溺死者を見て詠んだ長歌の反歌である。今仲多度郡に属し砂弥《しゃみ》島と云っている。坂出《さかいで》町から近い。
一首の意は、若し妻が一しょなら、野のほとりの兎芽子《うはぎ》(よめ菜)を摘んで食べさせようものを、あわれにも唯一人こうして死んでいる。そして野の兎芽子《うはぎ》はもう季節を過ぎてしまっているではないか、というのである。
タグという動詞は下二段に活用し、飲食することである。人麿はこういう種類の歌にもなかなか骨を折り、自分の身内か恋人でもあるかのような態度で作歌して居る。それゆえ軽くすべって行くようなことがなく、飽くまで人麿自身から遊離していないものとして受取ることが出来るのである。
○
[#ここから5字下げ]
鴨山《かもやま》の磐根《いはね》し纏《ま》ける吾《われ》をかも知《し》らにと妹《いも》が待《ま》ちつつあらむ 〔巻二・二二三〕 柿本人麿
[#ここで字下げ終わり]
人麿が石見国にあって死なんとした時、自ら悲しんで詠んだ歌である。当時人麿は石見国府の役人として、出張の如き旅にあって、鴨山のほとりで死んだものであろう。
一首は、鴨山の巌《いわお》を枕として死んで居る吾をも知らずに、吾が妻は吾の帰るのを待ち詫《わ》びていることであろう、まことに悲しい、という意である。
人麿の死んだ時、妻の依羅娘子《よさみのおとめ》が、「けふけふと吾が待つ君は石川《いしかは》の峡《かひ》に(原文、石水貝爾)交《まじ》りてありといはずやも」(巻二・二二四)と詠んで居り、娘子は多分、角《つぬ》の里《さと》にいた人麿の妻と同一人であろうから、そうすれば「鴨山」という山は、石川の近くで国府から少くも十数里ぐらい離れたところと想像することが出来る。そこで自分は昭和九年に「鴨山考」を作って、石川を現在の江川《ごうのがわ》だと見立て、邑智《おおち》郡|粕淵《かすぶち》村の津目山《つのめやま》を鴨山だろうという仮説を立てたのであったが、昭和十二年一月、おなじ粕淵村の大字|湯抱《ゆかかえ》に「鴨山」という名のついた実在の山を発見した。これは二つ峰のある低い山(三六〇米)で津目山より約半里程隔っている。この事は「鴨山後考」(昭和十三年「文学」六ノ一)で発表した。
この歌は、謂わば人麿の辞世の歌であるが、いつもの人麿の歌程威勢がなく、もっと平凡でしっとりとした悲哀がある。また人麿は死に臨んで悟道めいたことを云わずに、ただ妻のことを云っているのも、なかなかよいことである。次に人麿の歿年はいつごろかというに、真淵は和銅三年ごろだろうとしてあるが、自分は慶雲四年ごろ石見に疫病の流行した時ではなかろうかと空想した。さすれば真淵説より数年若くて死ぬことになるが、それでも四十五歳ぐらいである。
[#改ページ]
巻第三
○
[#ここから5字下げ]
大君《おほきみ》は神《かみ》にしませば天雲《あまぐも》の雷《いかづち》のうへに廬《いほり》せるかも 〔巻三・二三五〕 柿本人麿
[#ここで字下げ終わり]
天皇(持統天皇)雷岳《いかずちのおか》(高市郡飛鳥村大字雷)行幸の時、柿本人麿の献《たてまつ》った歌である。
一首の意は、天皇は現人神《あらひとがみ》にましますから、今、天に轟《とどろ》く雷《いかずち》の名を持っている山のうえに行宮《あんぐう》を御造りになりたもうた、というのである。雷は既に当時の人には天空にある神であるが、天皇は雷神のその上に神随《かむながら》にましますというのである。
これは供奉《ぐぶ》した人麿が、天皇の御威徳を讃仰し奉ったもので、人麿の真率《しんそつ》な態度が、おのずからにして強く大きいこの歌調を成さしめている。雷岳は藤原宮(高市郡鴨公村高殿の伝説地)から半里ぐらいの地であるから、今の人の観念からいう
前へ
次へ
全133ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング