まじることだから、此処は入りかわり立ちかわり水汲みに来る趣である。これも前の桃の花の歌に同じく、我妹子にむかって情を告白するのでなく、若い娘等の動作にむかって客観的の美を認めて、それにほんのりした情を抒《の》べているのである。こういう手法もまた家持の発明と解釈することが出来る。前にあった、「かはづ鳴く甘南備《かむなび》河にかげ見えて今か咲くらむ山振《やまぶき》の花」(巻八・一四三五)もまた名詞止だが、幾分色調の差別があるようだ。
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あしひきの八峰《やつを》の雉《きぎし》なき響《とよ》む朝けの霞見ればかなしも 〔巻十九・四一四九〕 大伴家持
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大伴家持作、暁に鳴く雉《きぎし》を聞く歌、という題詞がある。山が幾重にも畳《たた》まっている、その山中の暁に雉《きじ》が鳴きひびく、そして暁の霧がまだ一面に立ち籠《こ》めて居る。その雉の鳴く山を一面にこめた暁の白い霧を見ると、うら悲しく身に沁《し》むというのである。この悲哀の情調も、恋愛などと相関した肉体に切《せつ》なものでなく、もっと天然に投入した情調であるのも、人麿などになかった一つの歌境と謂《い》うべきで、家持の作中でも注意すべきものである。「八岑《やつお》越え鹿《しし》待つ君が」(巻七・一二六二)、「八峰には霞たなびき、谿《たに》べには椿花さき」(巻十九・四一七七)等の如く、畳まる山のことである。なお集中、「神さぶる磐根《いはね》こごしきみ芳野《よしぬ》の水分《みくまり》山を見ればかなしも」(巻七・一一三〇)、「黄葉の過ぎにし子等と携《たづさ》はり遊びし磯を見れば悲しも」(巻九・一七九六)、「朝鴉《あさがらす》はやくな鳴きそ吾背子が朝けの容儀《すがた》見れば悲しも」(巻十二・三〇九五)等の例があるが、家持のには家持の領域があっていい。
この歌の近くに、「朝床に聞けば遙けし射水《いみづ》河朝|漕《こ》ぎしつつ唱《うた》ふ船人」(巻十九・四一五〇)という歌がある。この歌はあっさりとしているようで唯《ただ》のあっさりでは無い。そして軽浮の気の無いのは独り沈吟の結果に相違ない。
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丈夫《ますらを》は名《な》をし立《た》つべし後《のち》の代《よ》に聞《き》き継《つ》ぐ人《ひと》も語《かた》り継《つ》ぐ
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