う歌句の人麿の歌にも無いのは、人麿はこういう実際を余り見なかったせいもあるだろう。作歌のおもしろみは這般《しゃはん》の裡《うち》にも存じて居り、作者生活の背景ということにも自然|関聯《かんれん》してくるのである。下の句もまた、越中にあって寂しい生活をしているので、都をおもう情と共にこういう感慨がおのずと出たものと見える。
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巻第十九
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春《はる》の苑《その》くれなゐにほふ桃《もも》の花《はな》した照《て》る道《みち》に出《い》で立《た》つ※[#「女+感」、下−156−4]嬬《をとめ》 〔巻十九・四一三九〕 大伴家持
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大伴家持が、天平勝宝二年三月一日の暮に、春苑《はるのその》の桃李花《ももすもものはな》を見て此歌を作った。「くれなゐにほふ」は赤い色に咲き映《は》えていること、「した照る道」は美しく咲いている桃花で、桃樹の下かげ迄《まで》照りかがやくように見える、その下かげの道をいう。「橘のした照る庭に殿立てて酒宴《さかみづき》いますわが大君かも」(巻十八・四〇五九)、「あしひきの山下《やました》ひかる黄葉《もみぢば》の散りのまがひは今日にもあるかも」(巻十五・三七〇〇)の例がある。春園に赤い桃花が満開になっていて、其処《そこ》に一人の※[#「女+感」、下−156−4]嬬《おとめ》の立っている趣の歌で、大陸渡来の桃花に応じて、また何となく支那の詩的感覚があり、美麗にして濃厚な感じのする歌である。こういう一種の構成があるのだから、「いで立つをとめ」と名詞止にして、堅く据えたのも一つの新工夫であっただろう。そしてこういう歌風は時代的に漸次に発達したと考えられるが、家持あたりを中心とした一団の作者によって進展したものと考える方がよいようであるし、支那文学乃至美術の影響がようやく浸潤したようにおもえるのである。曹子建の詩に、「南国に佳人あり、容華桃李の若《ごと》し」の句がある。なおこういう感覚的な歌には、「なでしこが花見る毎にをとめ等が笑《ゑま》ひのにほひ思ほゆるかも」(巻十八・四一一四)、「秋風に靡《なび》く河傍《かはび》の和草《にこぐさ》のにこよかにしも思ほゆるかも」(巻二十・四三〇九)などがあり、共に家持の歌だから、この桃の花の歌同様家持の歌の一傾向であったと謂《い》い得るとお
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